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卑屈と謙遜

先日、Twitterで自らの身長・体重を公にして減量に励む女性アカウントを見かけた。かなりフォロワーがいる、所謂「アルファツイッタラー」という人だ。

自らの目指す理想があり、それに向かって努力できる人は素晴らしいなと思う反面、少々気がかりなことがあった。それはそのアルファさんが、自分の身長・体重を公にした上で自らを「デブ」と形容し、「デブ過ぎん??!!!」というクソリプに「その言葉が欲しかった!」と返信していたことだ。

よりよい自分を目指そうとする姿勢は尊いが、身長・体重を公にした上で「デブ」と称するのは同じくらいの体型の人間に対する抑圧になり得ること、自らは叱咤でやる気が出る人間だったとしても、侮辱にまともに取り合うべきでないことをあまり意識していないのかな、と思う。

個人アカウントなら何も言うべきことはないが、仕事にも併用していて16万人以上のフォロワーがいるアルファツイッタラーさんが発言することで、より多くの人間の目に触れることを危惧してしまう。私の周りでも、同級生なんかに「デブ」と罵られて拒食と過食を繰り返すようになってしまった話など耳にすることがあるからだ。

そのアルファさんはもしかすると謙遜のつもりでクソリプに返信したのかもしれないが、私の目には卑屈に映った。「私みたいな人間は罵られて当然」とあまり距離がないように感じたからだ。

そもそも、褒めにしろ貶めにしろ、安易に人の外見に触れるべきではない。外見は本人の意思で選べないので、たとえば私が好きな俳優の歯並びも、あなたが好きなアイドルの鼻筋も、他人がとやかく言うべきではないのだ。太っていようが痩せていようが、健康に害があるレベルでなければ私たちは充分にうつくしい。健康に害がある場合は、専門家による何らかのアクションを急いだ方がいい。

私たちは私たちとして生まれた時点で既に完成している。自分に何かが足りない、と感じるとき、それは周りに損なわれた可能性が高い。他人と比較され、その結果世間一般に価値があるとされる部分があなたにないとき、あなたは価値が損なわれていると感じる。本当は何ひとつ損なわれておらず、ただただ世間が勝手にあなたをジャッジしただけだ。本来そんな権利は誰にもないのに。

その「ジャッジ」という被害は、特に女性が遭いやすい。ネットサーフィンをしていても至るところでコンプレックスを煽る広告を目にする。たとえば「彼に飽きられちゃう!? 貧乳から巨乳になるには」なんかや、「こんな女は嫌われる! 愛され彼女になるには」なんかだ。私からすれば貧乳の何が悪いのかさっぱりわからないし煩ぇという感じだし、愛され彼女になって欲しいなら愛され彼氏になる努力も一緒にしろよ、と思ってしまう。

「彼女に飽きられちゃう!? 短小包茎からカリ高巨根になるには」という広告には未だかつてお目にかかったことがないので、そういう不均衡さが女性への抑圧にも繋がっているのだろう。

クラスなんかで男子は女子の胸や尻を品評するが、女子は男子のペニスのサイズや尻の品評をしたりはほとんどしないだろう。同じカテゴリの話題を同じように口にできないのは、できない方が抑圧されているからだ。女子が性的なことを口にした場合、「ビッチだからあいつには何してもいい」と言い出す輩がいないとは言えない。身の安全を人質に取られ、女性は言葉を奪われている。

「ジャッジ」を拒絶できない(すると滅茶苦茶に叩かれる)現実がある以上、抑圧に迎合しなければならないのがつらいな…………件のアルファツイッタラーさんをフォローしている人が不必要にジャッジを内面化してしまわないことを願う。あなたは、もちろん私も、生まれたときから最高だし明日は今日よりもっと最高だ。

あなたはとても素敵だから、もっともっとたくさんあなたを愛して欲しい。私は私を同じように愛す。


サポートしてもいいかな、と思ってくれたそのお金であなたの大切な人と素敵な時間を過ごしてください。