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理不尽な自由意志1:均されない運と努力神話【哲学】


自由意志概念は難しいので、論理の正確さを気にし始めると何も書けなくなる。理由は以下の記事参照。

自由意志をめぐる葛藤2:学んだ末に迷路。本の紹介など。
https://note.com/s1000s/n/na359cd983768

これからいくつかの記事では自由意志概念を分析するのではなく、なぜ私が自由意志問題にねちねち拘っているのか関心の由来について書きたい。

一言で表すなら〈理不尽〉である。

自由意志は存在しても理不尽、せずとも理不尽、そういうものだと思っている。




自由意志への不満


不満1 均されない運


私は「人間の営みはすべて遺伝と環境によって決まる」とまでは確信できていない。だが、「人間の営みにおいて遺伝や環境はきわめて重要な影響をもつ」くらいなら正しいと思っている。

本人にはどうにもできない事情を「運による事情」としよう。生まれた時点でもつ遺伝的資質や環境は、本人にはどうにもできない運による事情である。こう考えると、人生最初期は、運が全てを支配していると言えそうだ。

① 家庭の問題 生まれた家庭が経済的・文化的・人脈的にどの程度の資本をもつか。保護者は子に愛情を注いでくれるか。
② 遺伝の問題 先天的な遺伝的資質において恵まれているか。
③ 場所・時代の問題 自らの資質を評価してくれる地域・時代に生まれたか。社会インフラは整っているか。

どれも生まれた当人が自己選択したものでもないし、労して獲得したものでもない。これらに恵まれた者は幸運、そうでない者は不運だったというしかない。人生のスタート地点には、運による格差が厳然と存在する。

しかも社会のあり方によっては初期の運は均されるどころか拡大する。

〈個人の功績に応じてリソースを配分する〉という一見公平な社会システムにおいても、初期の格差は雪玉式に拡大し不公平な帰結に至る。

分かりやすい例をあげよう。プロスポーツの世界では、同学年の子たちよりも早く生まれた子が成功者になりやすい。幼い子は成長速度がきわめて早いので、1か月でも早く競技をはじめた方が非常に有利となる。そして同学年で成績がよかった子はより良いチーム、プログラム、コーチの下でより多くの試合をこなす。同学年の中で何か月か早く生まれたというちょっとした幸運が、その後の人生に大きな差を与えていく。

カルーゾー、デネットの『自由意志対話』から、カルーゾーの発言を引用したい。

カルーゾー、2022年
「別のスポーツの例を用いましょう。カナダのジャーナリストであるマルコム・グラッドウェルは『天才――成功する人々の法則』(Gladwell 2008)の中で、非常に奇妙な事実を報告しています。それによれば、ナショナル・ホッケーリーグの選手には、他の月よりも一月、二月、三月生まれが多いというのです。グラッドウェルの説明によれば、カナダの子どもたちはごく幼い内からホッケーをプレイし始める。そして年齢別ホッケープログラムの参加資格は、一月一日で区切られている。六歳や七歳の時期では、一〇ヶ月ないし一一ヶ月の月齢差は、競争相手に対する顕著な利点となります。より年長のプレイヤーは上達しやすく、その結果試合時間も増える。そしてランクを上げていくにつれて、より優秀なチームと、よりエリート向けのプログラムに選出され、よりよいコーチが付き、より優れた競争相手との試合をより多くプレイすることになる。出発点の、単なる運に過ぎないちょっとした利点が雪玉式に膨れ上がり、達成した成果と成功におけるギャップがどこまでも開いていく、という結果になるわけです。」

ダニエル・Cデネット、グレッグ・D・カルーゾー著 木島泰三訳『自由意志対話』青土社 2022年 40-41頁


なお文中に出てきたグラッドウェル氏は「1万時間の法則」で有名である。残念ながらこの法則は疑問視されているわけだが(※この記事参照)、上記シナリオ自体は分かりやすい。

ご存じの方もおられるだろうが、早生まれが得であるという現象は日本でも見られる。ちょっと前にSNS上でも話題になっていたが、プロ野球選手には4月生まれが多いらしい。大学進学率にも差がでているという。

山口、2020年
「これまでの様々な研究は、生まれ月による格差は大人になっても完全には消えないことを明らかにしてきた。プロ野球選手やJリーガーのようなスポーツ選手には4月生まれが多く、早生まれが少ないという話は、研究者でなくとも聞いたことはあるだろう。日本全体での出生数には、月による偏りはほとんどないから、生まれ月が有利、不利を生み出していることがわかる。
こうした生まれ月の格差は、プロスポーツ選手ではない私たち一般人にとってもけっして無縁ではない。東京大学の川口大司教授の研究(*1)によると、4-6月生まれと1-3月生まれでは大学進学率が異なるうえ、30代前半の所得には4%もの違いがある。」

山口 慎太郎「早生まれは不利、なのか…? 「生まれ月格差」の驚くべき実態 数字が示すこと」
現代ビジネス 2020年9月16日
https://gendai.media/articles/-/75636


生まれ月が早いというちょっとした運の良さが、周囲よりちょっと良い功績に繋がり、功績は次のチャンスに導き、新たな功績を生み出す。富める者はますます富み、である。

狭き門に多数が終結するプロスポーツの世界ではさもありなんという話だ。しかし、カルーゾーによると、人生初期の不平等は、人生のあらゆる諸相において影響を与えている。

カルーゾー、2022年
「運とは、長い目で見ると均されていくようなものではないのです。つまり、遺伝的な能力や早期の環境において不利なスタートを切った者が、後の人生で必ずそれを埋め合わせる運に恵まれるなどとは決まっていません。むしろデータが明らかに示すところでは、人生の初期における不平等があると、時間につれて、それが均されて平等に近づくどころか、不平等の度合いがよりひどくなっていくことがしばしばなのです――つまり初期の不平等は、健康や収監率に始まり、学校やその他人生のすべての諸相に至るまで、あらゆるものに影響を与えるのです。(中略)同様の現象は社会の至るところに見られます。例えば、いくつかの研究によれば、子ども時代を社会的経済的に下層の階層で暮らすことは、脳の発達に始まり、人生への展望、教育、収監率、所得に至るまでのありとあらゆる点に影響をおよぼしうるといいます(関連文献の議論については、僕の『応報主義を退ける』(Caruso 2021a)第七章を参照)。同じことは教育の不平等、暴力にさらされやすい環境、栄養状態の格差などについても成り立っています。それゆえ、長い目で見れば運は均される、という考えは誤りであって、運は均されたりしない、ということになります。」

ダニエル・Cデネット、グレッグ・D・カルーゾー著 木島泰三訳『自由意志対話』青土社 2022年 40-41頁

人生初期の格差があらゆるものに影響を与えるという現象が日本でどこまで深刻になっているのか私は詳しくは知らない。

ここまで生きて来ての実感や観察、各種報道に接す限りでは「日本でもこうした事態は絶対起きているし、かなり深刻な事態だ」とは思うものの、信頼できるエビデンスを多数把握しているわけではない。ただ初期の運が拡大していくプロセス自体は先進国共通であろう。

ちょっとした初期格差が覆せない大格差につながるというロジックは研究の世界でも見られるようだ。1本の論文業績に対してメリットが積み重なっていく業界では、「研究人生初期に目立つ1本を出せるか否か」が絶望的なまでの格差をもたらしてしまう。

以下の評論ではこの点に関して言及がある。

山田祐樹「未来はごく一部の人達の手の中」心理学評論 Vol. 62, No. 3 2009年 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/62/3/62_296/_article/-char/ja/


この項目の最後に、遺伝的才能に関してコメントしておく。この世には〈遺伝的才能〉が存在し、人々には生まれながらの才能差があるのだと私は思う。とはいえ、現状の世界において、肩書の差や収入の差は必ずしも才能の差を示すわけではない。その一つの理由は、初期格差が雪玉式に拡大するメカニズムがあるからだ。(もちろん肩書や収入に直結しないタイプの才能がたくさんあること、あまり肩書や収入に拘らない才能人がいることも理由である。)


不満2 努力神話


「広い目線でみれば不公平がみられるのかもしれないが、実際には〈努力〉で覆せる場面も多いのだ」と思われるかもしれない。

ただし、その反論は説得力が弱いと私は思っている。

第一に、努力の「やる気スイッチ」がオンになるかどうかを自分の意志の力だけでコントロールできるとは思えない。もしできるなら誰もが努力の天才になっているはず。実際には無数の環境要因や遺伝要因に支えられて、あるとき「ふと」発生するのが“やる気“だろう。

第二に、どれだけの努力を必要とし継続できるのか。これらは、向き不向き・好き嫌いという才能や、おかれた環境によって著しく異なる。そしてこの才能や環境はたいてい当人の自由意志で用意できるものではない。

というわけで、仮に努力でなんとかなる場面が多いのだとしても、その〈努力〉は自由意志ではなくて遺伝と環境の力で運よく発生し維持されているのではないかと疑われる。

となるとそもそも自由意志はどこで何をしているのか? という話になる。どこにもいない可能性さえある。

この点、SNS上では「結局全て運ゲーじゃん」と呟く人もみられるし、哲学界では「運はあらゆるものを飲み込んでしまう」というゲイレン・ストローソンのような者も影響力をもっている様子。アインシュタインも、「自分の業績は自分のコントロールできない要因によって達成されたものだから賞賛を要求できるものではない」と言っていた。

カルーゾー、2022年
「アルバート・アインシュタインの例を考えてみましょう。彼もまた自由意志懐疑論者であり、自分の科学上の業績は彼自身の手で作られたものではないと信じていました。彼は一九二九年、『サタデー・イヴニング・ポスト』誌のインタビューでこう語りました。「私は自由意志を信じていません。……私は、ショーペンハウアーと共に、私たちは自分が望むことをなすことができるが、しかし私たちは自分が望まざるをえないことしか望むことができない、と信じています」。続けて彼はこう言い添えます。「私自身のキャリアが、私自身の意志によってではなく、むしろ私にコントロールできない諸要因によって決定されたものであることは、疑えないことです」。そして彼は、自分が科学上の業績のゆえに賞賛や賛辞に相応しい、という考えを退けることで談話を締めくくります。「私は、何に対する賛辞も要求しません。私たちのコントロールがおよばない諸々の力によって、始まりも、終わりも、すべては決定されています」。」

ダニエル・Cデネット、グレッグ・D・カルーゾー著 木島泰三訳『自由意志対話』青土社 2022年 48-49頁

The Saturday Evening Post 1929年10月26日の該当部分については以下の記事で書き起こされている。


アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と語ったとされる。この世にある物質は全て決定論的な物理法則通りに振る舞うという話だ。そうであれば、〈アインシュタインという物質〉もまた「そう振る舞う他なかった」わけで、自由意志の力で成し遂げたことなど何もないことになる。だから賞賛は要求しない、とアインシュタインはいうのだ。正しいかはさておき、一貫した立場である。なお現在では「決定論と自由意志は両立しないし、決定論と自由意志も両立しない」という〈非両立論者〉がみられるが、アインシュタインが生きていたら同意したのではないかと私は思う。

とはいえ、ひねくれもの、頭でっかちの哲学者、アインシュタインは相対的にいって少数派である。

一般的には、何らかの意味で自由意志は存在すると信じられているし、人生の経験を説明する概念として自由意志はしばしば現れる。しかし、その現れ方が私にとって嫌な感じなのだ。

従来から思っていたこの「嫌な感じ」を具体的に描写してくれていたのが、サンデルの『実力も運のうち』(原題は『功績の専制』)であった。

(なお、私自身は前述の通り自由意志と努力は別概念だと思っているのだが、一般には似た概念だと思われているので、以下では自由意志≒努力と仮に認めておく。)

人生初期の格差が雪玉式に拡大する理屈は既に述べた。格差大国で知られるアメリカでは、それが極端な形で起きている。

名門大学の生徒たちはその大半が裕福な家庭で育っている。生徒たちは賢いわけで、自分が恵まれた環境で育ってきたことを自覚していても良さそうだが、サンデルの見立てによれば、心情的にいってそうした自省は案外難しい。というのも、生徒たちは実際に血の滲む努力をしてきた(させられてきた)から。青春を犠牲にし、傷つきながら努力してきただけに、自分の功績が無数の幸運に支えられている事実を無視してしまう。

サンデル、2021年
「全体を見ても、過去を振り返っても、名門大学のキャンパスには裕福な家庭の子女が圧倒的に多いことを考えれば、勝敗はあらかじめ決まっているようなものだ。ところが、熾烈な受験戦争の渦中にいると、合格は個人の努力と学力の成果だとしか考えられない。こうした見方が、勝者の心にこんな信念を芽生えさせる。すなわち、成功は自らの努力の賜物であり、自分で勝ち取ったものである、と。この思い込みは、能力主義的なおごりの現われとして批判されるかもしれない。個人の頑張りを必要以上に強調し、努力が成功につながったのはさまざまな恩恵のおかげであることを忘れているからだ。だが、その思い込みには胸が痛むところもある。若者が能力主義の競争に駆り立てられ、苦しみ、魂をむしばまれながら育んできたものだからだ。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 256頁


「努力した者が成功するとは限らないが、成功した者はみな努力している」みたいな名言が頭をよぎる。確かにそう。受験成功者はみな努力している。

だが、同時に合格者はたいてい裕福な家に生まれている。
「裕福な家の子が成功するとは限らないが、成功した者はみな裕福な家の子である」も成り立っている

アメリカ名門大受験の実態としては、

裕福な家の才能のある子が努力したとしても成功できるとは限らない。だが、成功者はたいてい努力をしてきた裕福な家の才能のある子である。

となっているのだろう。もちろん、全員という話ではなく傾向の話だが。

しかし〈努力〉だけに注目すると、こうした社会的背景が見えなくなる。努力だけで結果がもたらされたのだと短絡してしまう。

ここには原因と結果に関する認知の歪みがあるように思う。その点、哲学者の小山虎氏は次のように書いている。

小虎、2021年
「むしろ逆に、賞賛に値する行為であるがゆえに・・・・・・・・・・・・・・、その行為は自由意志に基づいているとみなされるだけだとは考えられないだろうか。」

小山虎「どうしてそんなに自由意志が大事なのか」現代思想 青土社 2021年8月 180頁


私たちは、自由意志による行為だと判明したから賞賛するのではなく、賞賛されるような行為をみると、「きっと自由意志によってなされたものだ」とみなしてしまうという見解である。私はけっこう説得力を感じている。

成功者の特集などでは、その類まれな才能、師匠や仲間に恵まれたエピソード、幸運な出会いや思わぬ転機などのエピソードも縷々語られるわけだが、「つまり成功の原因には優れた遺伝や環境があったのです」という話には当然ならない。「その成功の裏には人並み外れた努力があったのです」と、努力への賞賛でオチがつく。尋常ならざる努力をしているのはその通りだと思うし、畏敬の念を覚えるわけだが、「すなわち努力が全てだったのです」とばかりに遺伝や環境の話が途中退場してしまっていることがしばしばで、とても気になる。公正世界バイアスや生存バイアスのようなバイアスの一種だと疑っているのだ。……と思ったらサンデル本にも同趣旨が書いてあった。

サンデル、2021年
「われわれは、スポーツであれ人生であれ、成功は受け継ぐものではなく自ら獲得するものだと信じたがる。生まれつきの才能やそれがもたらす優位性は、こうした能力主義的信念に揺さぶりをかける。称賛や褒賞をもたらすのは努力だけだという確信に疑義が生じる。こうした事態に当惑し、われわれは努力と奮闘の道徳的意義を誇張する。この歪曲が目に付くのは、たとえばオリンピックのテレビ報道だ。そこでは、アスリートがなしとげる偉業よりも、彼らが克服してきた苦難、乗り越えてきた障害、ケガに打ち勝つための闘いといった胸が張り裂けるような物語、子供時代の苦労、母国の政治的混乱などに焦点が当てられるのである。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 184-185頁


こうしたサンデル氏の話を聞いて、「日本も全く同じだ」と思った方もいるだろう。だが、どうもというかやはりというか、氏の認識だと日本よりもアメリカの方がずっと先に進んでしまっているようだ。同著本文では日本も数か所で言及されているが、いずれもアメリカよりマシという文脈である。

まず労働観について。アメリカでは懸命に働きさえすれば成功できるという信念が共有されていて、そのせいで他人に助けを求められなくなっているという。

サンデル、2021年
「アメリカ人はとりわけ、努力は成功をもたらす、自分の運命は自分の手中にあると固く信じている。世界規模の世論調査によると、大半のアメリカ人(七七%)が、懸命に働けば成功できると信じているのに対し、ドイツ人でそう信じているのは全体の半分にすぎない。フランスと日本では大半の人が懸命に働いても成功は保証されないと答えている。(中略)
 労働と自助をめぐるこうした見解は、連帯と市民の相互義務に大きな影響を与える。懸命に働くすべての人が成功を期待できるとすれば、成功できない人は自業自得だと考えるしかないし、他人の助けを頼むことも難しくなる。これが能力主義の過酷な側面だ。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 110-111頁

文中の世論調査については以下の通り(Pew Research Center,2012)。


次に経済的流動性。親の経済的格差が子に引き継がれる頻度は、アメリカの方が高いらしい。

サンデル、2021年
「実のところ、アメリカの経済的流動性はほかの多くの国々よりも低い。ドイツ、スペイン、日本、オーストラリア、スウェーデン、カナダ、フィンランド、ノルウェイ、デンマークなどとくらべ、経済的な優劣が、ある世代から次の世代へと引き継がれる頻度が高いのだ。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 113頁


さらに親の教育観について。アメリカでは人生初期の教育が後の深刻な不平等へとつながるため、親が子の教育に対して過干渉になっているという。

サンデル、2021年
「ある興味深い研究で、経済学者のマサイアス・ドプキーとファブリツィオ・ジリボッティは、ヘリコプター・ペアレンティングの定義を「過去三〇年に広まった、深く干渉し多くの時間を注ぐ支配的な子育て法」とし、その台頭について経済学的解釈を示している。彼らによれば、そのような子育ては、不平等の拡大と、教育によって得られる利益の増大に対する合理的な反応だという。親業への注力はこの数十年、多くの社会で厳しさを増しているが、最も目立つのはアメリカや韓国など不平等の大きい社会で、不平等さがさほど深刻でないスウェーデンや日本ではあまり高じていない。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 258頁


ドピキーとジリボッティの研究は以下の本にある模様
Matthias Doepke、Fabrizio Zilibotti『Love, Money & Parenting』Princeton Univ Pr 2019年


日本とアメリカでは雇用や教育のあり方が大きく違うし、サンデル氏が特段日本に詳しいとは全く思わない(「日本では不平等がさほど深刻ではない」と言われても……)。しかしやはりアメリカの方が自由意志神話・努力神話は相当に強いのだろう。アメリカは偉大な国だと思うが、この神話に関しては日本は共有しないで欲しい。

ではどうすればいいのだと言う話だが、サンデル氏によれば、「社会的成功を決めるのは何より個人の資質なのだ」と捉えるのではなく、「どんな成功者であれ、幸運、神の恩寵、コミュニティの支援など、個人の力では説明できないものに支えられているのだ」という認識することが、道徳の基盤を強固にするという。

サンデル、2021年
「社会の最上位に立つ人びとも、底辺に落ち込んでいる人びとも、自らの運命に対して全責任を負っているとすれば、社会的地位は人びとが値するものを反映していることになる。裕福な人びとが裕福なのは、彼らの行いのおかげなのだ。だが、社会の最も幸福なメンバーの成功が何か――幸運、神の恩寵、コミュニティの支援など――のおかげだとすれば、お互いの運命を共有する道徳的な根拠はより強力になる。ここでは誰もがともにあるのだと、主張しやすくなる。
 われわれは自らの運命の主人なのだと頑なに信じているアメリカに、ヨーロッパの社会民主主義国ほど寛大な社会保障制度がない理由は、ここにあるのかもしれない。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 122頁


まぁそうだろうなと思う。

例えば最近、入試や政治参加の場面で「くじ引き」の要素を取り入れたらどうかとの提案がちらほらみられるようになったが、一考の余地があると思う。とはいえ、具体策に関しては当然議論が分かれるだろう。

一般論として重要だと思うのは、自由意志を強調する程に、〈私のせいで起きた事〉の数が多くなってしまうことだ。本当は時代や地域のせい、特殊な人間関係のせい、悪い制度や慣習のせい、不運のせいにすべきところでも、「私のせいだ……」と深く悩むことになる。これは自分自身にとっても社会にとっても好ましいことではない。

他方、自由意志を低くみつもると、不運は不運だと認識できる。焦点は特定の個人にではなく、問題を引き起こした諸原因に合わされるようになる。誰もが運に振り回されると考えるからこそ、不幸へ落ちた者のためにセーフティネットを用意しようと話は進む。

ちなみに「成功といえば努力!」と連想するアメリカ人でも、「つまり貧乏人は努力不足」と断言するとは限らない。経済格差や貧困のことを改めて問われると、なんやかんや環境要因の大きさに思い至る人も多いようだ。

サンデル、2021年
「こうした調査ではいずれも同じことだが、人びとが示す態度は質問の立て方に応じて変化する。裕福な人もいれば貧しい人もいる理由を説明するとなると、アメリカ人は、一般論として労働と成功についてたずねられた場合より、努力の役割について確信が持てなくなる。裕福な人が裕福なのは、ほかの人より懸命に努力するからなのか、それとも、人生における利点を持っていたからなのかとたずねられると、アメリカ人の意見は半々に分かれる。人びとが貧しい理由をたずねられると、本人に制御できない環境のせいと答える人が多数派であり、貧乏なのは努力が足りないせいだと言う人は十人中三人にすぎない。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 111頁


社会問題に目を向ける習慣があると、努力神話どっぷり人間にはなりにくくなると思う。逆に成功者のオリジンストーリーばかり読んでいるとガンバリズムを疑う視座が消滅しそうである。

もっとも、自由意志を低く見積もると、〈自分には何かを成し遂げる力がある〉という自己効力感が低くなりそうだ。それに「全ては遺伝と環境、運なのだ!」という認識をみなが共有した社会が持続可能なのか心配である。偉業がなされたときに、それを〈たまたま生じた幸運〉だとして祝福する社会より、達成者の〈たゆまぬ努力〉を称賛する社会の方が人々のモチベーションは高いかもしれない。サンデル氏の学生の中には、たとえウソだとしても努力神話は守られるべきだと考える者もいたという。

サンデル、2021年
「アメリカン・ドリームが事実と異なっているとしても、そのニュースを広めないことが大切だと主張する学生もいる。才能と努力の許すかぎり出世できると人びとが信じつづけるよう、その神話を守る方がいいというのだ。」

マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳『実力も運のうち』早川書房 2021年 115-116頁


議論の余地大ありであることを承知で、現時点での私の見解と趣味を述べておく。自由意志を強調する議論は事実認識として間違っていると思うし、嫌いである。「個人が自由にできるものなどたかが知れている」という認識は強調され広く共有されて欲しい。冒頭書いた通り「人間の営みにおいて遺伝や環境はきわめて重要な影響をもつ」というのが私の意見だ。

ただし、自由意志が全くないという議論にもかなりの恐ろしさを感じる。アインシュタインほど割り切れないのだ。

長くなってきたので、自由意志否定論の怖さについては別記事で論じる。










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