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自由意志をめぐる葛藤2:学んだ末に迷路。本の紹介など。


自由意志に関する議論を集中的に読んだり考えたりしていたが、あまりに厄介なのでこの話ばかりに関心を向けるのは休止することにした。考え続けるが、他のことも考える。

ここではなぜどのように厄介だと思ったのかについて書いていく。あと本の紹介もする。

特に結論はない記事である。



自由意志の意味とは?


定番の議論


まず自由意志の意味を掴む時点で難しい。

自由意志とは①他行為可能性や②源泉性(自分次第性)を意味すると考えるのが定番らしいが、どちらも腑に落ちないところがある。

他行為可能性説に対しては、有力な批判がある。例えば「世界が決定論的であるなら他行為可能性は〈あると感じられているだけで実はない〉ことになるだろうし、世界が非決定論的であるとしても、単なるランダム性は自由の足しにはならないだろう」というものだ。確かにその通り。

それにここでは詳述しないが、そもそも他行為可能性が自由意志の必要条件であるのかも、実は明らかではない。

行為の源泉性(自分次第性)を持ち出す立場はさらによくわからない。源泉性なるものがあるとなぜ想定できるのか、説明ができていないようにみえる。

辞書的に考えるとさまざまな困難が浮き彫りに


もっと初歩的に、辞書的な定義をしてから考えようとしてもやはりすぐ壁にぶつかる。

例えば自由意志を「他から束縛されず自発的に行為を決定する意志」だとしよう。

この定義ですんなり理解できるだろうか。私からすると、定義に難しい概念がぎゅうぎゅうに押し込められていて、迷宮入り必至な感じがする。

ざっくりと疑問点を書いてみよう。

疑問1 「自」や「他」とは何なのか分からない。

自由意志の本質が他行為可能性にせよ源泉性(自分次第性)にせよ、そこで自由を行使している「私」が何なのかははっきりさせたいところ。しかし遺伝、脳、意識(無意識)、価値観、運、物理法則などは、私にとって「自」に分類される内的なものなのか、「他」に分類される外的なものなのか。自他とは何であり、その境界をどう判断するのかわからない。

疑問2 自発的とは何か分からない。

自発性などこの世にあるのか。われわれは環境と身体(脳含む)との相互作用により〈引き起っている〉だけのものを自ら〈発したもの〉だと誤解しているだけではないのか。「自発」という概念は、遺伝や環境や物理法則やら運やらとどう折り合うのかわからない。

ちなみに因果関係の哲学においては、この世には単に規則性が観察できるだけで、その規則性を引き起こしている原因(何かを起こす力)は存在しないとする立場もある。自発するものなどないというのだ。自由意志だけで手いっぱいなのに、因果関係の哲学まで関係してくるのだ……。

疑問3 行為とは何か、改めて言われると分からない。

「忘れ物をした行為」などに自発性はないようにみえるが、これらは「自由意志によるものではない行為」と考えていいのか。そんなことはないだろう。何かの予定を忘れていてすっぽかした場合、私が「忘れよう」などとは一時さえ思ってさえいないとしても、忘れたこと自体は「私がしたこと」と言われ怒られるだろう。

また、それとは別の問題として、「行為」は単なる物理的事実とどこまで重なり、どこで区別されるのか。「私が自転車で駅に向かう」と、「そのとき私の近辺で起きている物理的事象」は同一ではなさそうだ。なぜなら私の身体の動きやら周囲の空気の流れが物理的にいってだいぶ違ったとしても、「私が自転車で駅に向かう」には違いないだろうから。

疑問4 意志とは何か、よく分からない。

意志とは何なのか。意識のことではないようにみえる。「座ろう」と意識せず座っても「座る意志はあった」とみなされるからだ。では座るときにあったとみなされる「意志」とは何のことか、改めて考えるとよくわからない。

以上の疑問はすべてが難問にみえる。

その他、自由意志と密接な関係をもつ「責任」についても考えないといけない。

そもそも人はなぜ自由意志の有無など気にかけるのだろうかとか、哲学者が考えている「自由意志」と普通に人が言っている「自由意志」の意味はどこまで同じなのだろうかとかも気になっている。

自由意志は考えるべき論点が多すぎる。上であげたのはとりあげるべき論点の一部に過ぎない。

賢い人たちが何百年も悩み続けてきたわけだ。

これらの疑問や論点に関して、私なりの考えはあるにはあり、文字にもしている。だが、著しくまとまりにかけているので、整理にはかなりの期間を要すると思っている。



お勉強に用いている文献


勉強用に読んだ&読んでいる本の中から特に印象に残ったものを紹介する。多くはざっくり読んだだけなので、咀嚼できているわけではない。ここ10年くらいは自由意志に関するいい本がばんばん出ているし、これからも出るんだろうなぁと思っている。嬉しいが、追いきれない……。

美濃正「決定論と自由」『岩波講座哲学2 形而上学の現在』岩波書店 2008年

美濃正氏の論文では、現代哲学における自由意志の主要な論点が簡潔かつ明快に解説されている。非常におすすめ。ただ他の論文は自由意志論ではない。岩波講座系だから図書館においてある可能性が高そう。

ジョセフ・K・キャンベル著 高崎将平、一ノ瀬正樹訳『自由意志』岩波書店 2019年

自由意志をめぐる議論が幅広く紹介されている。薄く広く系統ではあるものの、それぞれの議論の骨格がしっかり説明されている。この本だけでも自由意志をめぐる議論にはしっかり詳しくなれると思う。・・・・・・のだが、いきなりこの本に挑むと話の展開が早すぎてちんぷんかんぷんになるかも。

一読して「非決定論が足しにならない論証」はうまいなぁと思った。

自由意志と決定論の両立不可能論についてはインワーゲンの有名な論文があるのだが、これに対しては「現代物理学によれば決定論は否定されている」という反論がある。哲学界でも多くの者は決定論を拒否しているらしい(p.25)。

しかし、インワーゲンの論証が無意味になったわけではない。「①もし決定論が真ならば、だれも自由意志をもたない。②非決定論は自由意志の足しにならない。③したがって、だれも自由意志をもたない。」と論証を続けていけば、非決定論世界でも自由意志が存在しないことが示されるわけだ。

いまあげた二つの文献は、自由意志をめぐるさまざまな論点をうまくマッピングしてくれているので、頭がごちゃごちゃして、今何について考えているんだっけ、と困ったときに助かる。


門脇俊介・野矢茂樹編『自由と行為の哲学』春秋社 2010年

自由意志をめぐる「現代の古典」が収録されている。

とくに第Ⅰ部に収録されているストローソン「自由と怒り」、フランクファート「選択可能性と道徳的責任」「意志の自由と人格という概念」、インワーゲン「自由意志と決定論の両立不可能性」あたりはどの論文でも出てくるので、読んでおくとお得。

私としては、ここまでにあげた三つは重要度がとくに高い文献だと思っている。だが上2つは議論の骨格だけ描き出したようなものだし、3つ目は古典。全くの初学者がこの3冊だけ読んでもわけが分からない気がする。私は読んですぐ「素晴らしい本じゃん!」と思ったのだが、それは自分でも散々考えてきて何冊も読んだ上で巡りあったからこそだと思う。いきなりこれらに手を出していたら、むしろ考える気が失せたかも。

古田徹也『それは私のしたことなのか』新曜社 2013年

「自由意志は他行為可能性だ」とか「行為者次第性だ」とか論じる一歩前に大きな疑問が立ちはだかる。そもそも「私が何かをする」とはどういうことなのか、実ははっきりしないということだ。この段階で、既に大きな謎があるのだ。

本書は「意図」とは何かを徹底して探求していく。

早い段階で深く共感できたのは、「意図すること」と「意図を意識すること」は別物であると強調している点である。

ある人が試験を受けるために教室の椅子に座った。その人は椅子に座ることを意図していたとみなされるが、だからといって「椅子に座ろう!」などと自分の意図を意識してはいないだろう。意図に基づいて行動することと、意図を意識することとは別問題である。

このことを頭に入れておくと、さまざまなことに気づかされる。例えば有名なリベットの実験は、「脳の反応は〈手首を曲げよう〉と意識する瞬間に先立つ」ことを示したとされるが、意図をもっていることと意図を意識することは別物であるから、この実験は脳の反応が意図に先立つことを証明するものにはならないのだ。では意図ってなんだよ、という話がこの本で論じられている。

その他、この本では、「私がしたこと」とは何を意味するのかについて非常に重要なことが論じられている。私もこの著者の方向性で色々と考えていきたい。よくある自由意志論とは結構異なるアプローチにみえるが、かなりの説得力を感じつつある。

木島泰三『自由意志の向こう側』講談社 2020年

読み物としても面白い。

「スピノザってすごいんだなぁ」とか、「学説史的視点って重要だよなぁ」とか当たり前のことに改めて気づかされた。扱われる話題も幅広く、自由意志論の定番論点はほとんど抑えているように思う。「哲学本好き」にとって楽しい内容になっている。

あとは、自由意志否定論に拒否感をもつ人への解毒剤的な作用もありそうだ。私自身、自由意志否定論に言葉にしにくい種類の恐怖を感じるのだが、その怖さを減じてくれた(なお私は自由意志肯定論にも恐怖や理不尽を感じる。本書第3章でも触れられている通り、自由意志概念は人間に責めと罪を負わせるために要求されてきた一面があるからだ)。

自由意志論で出てくる他行為可能性を、「因果的な他行為可能性」と「設計上の他行為可能性」とに切り分けていくところ(本書第8章)には膝を打った。確かに私たちがとりわけ怖がっているのは前者の否定ではなく、後者の否定かもしれない。運命論や、何かから操られている感覚、行動が環境や遺伝に影響されているという個別具体的な研究等などに脅威を感じるのは、「設計上の他行為可能性」が案外脆いかもしれないことに怯えるからであって、因果性に関する形而上学とは関係なさそうだ。まぁ、私に関しては形而上学的な議論も重視してしまう性向があるのだが。

久木田水生、神崎宣次、佐々木拓著『ロボットからの倫理学入門』名古屋大学出版会 2017年

タイトルからは想像しにくいかもしれないが、普通に倫理学の本としてためになる。ロボットと対比することでかえって人間の倫理が浮き彫りにされるのだ。

「第3章 私のせいではない、ロボットのせいだ」が自由意志の議論に深く関わる。

仮にこの世の誰にも自由意志がないと分かったところで、「自由な行為者」と「不自由な行為者」は区別しなければならない。重度の精神疾患を抱えていたり、幼児であったり、認知症であったりして、「自分の行為をなぜしたのか説明できない人」に対して、そうでない人と同程度の責任を問うことは妥当ではないからだ。

では、自由な行為者かどうかを区別する基準は何に求めるべきか。そのことを考えるとき、本章で紹介されているフィッシャーとラヴィッツァの「誘導的コントロール説」は参考になる。私は今のところこの説を支持したいと思っている。

大まかに言うと「行為がしっかりコントロールされているならば、その人はその行為について自由である」という説である。もう少し詳しく言うと、(1)適度な理由反応性を備えた身体的・精神的メカニズムにより行為が生じている、(2)そのメカニズムが行為者自身のものである、の2つが満たされているとき、その行為者は自由に行為をしている。さらに詳しく言うと、……は、またいつかの機会に気がむいたら。

自由意志論と自己コントロール能力論はまた別種の議論なのだが、後者はまだ扱いやすいというか、一歩一歩議論が進展しているように感じられる。

第3章を執筆しているのは佐々木拓氏である。佐々木氏の論考はここでも読める。

佐々木拓「ロボット倫理学の基礎 : 責任とコントロール」社会と倫理 28号 p. 67-79 2013年11月20日

余談だが、名古屋大学出版会といえば、伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』も倫理学入門書として素晴らしい。

ダグラス・クタッチ著 相松慎也訳『因果性』岩波書店 2019年

自由意志の本ではないのだが、自由意志論とも関りをもつ本。

「自由意志によって右手をあげた」といえるためには、自由意志が「原因」となって右手があがるという「結果」がもたらされている必要がある。つまり、原因と結果に「因果関係」があることは前提になっている。自由意志論と因果関係論は密接な関係があるのだ。

例えば因果関係の哲学には規則性説というものがある。正確さを犠牲にして大雑把に言えば、「出来事aに引き続いて出来事bが観察されることはあるが、出来事aによって出来事bが引き起ることはない」とする説である。「原因から結果が引き起こされる」というのは、人間側が勝手にでっちあげた便利なフィクションというわけだ。何かを原因として引き起るものが何もないのであれば、当然自由意志を原因として引き起るものもないことになる。まあ「今でも規則性説を支持しているという人はほとんどいない」(p.25)らしいが、因果関係の理解が自由意志論と関係することは示している。

本書第8章では心的因果の問題が扱われる。自由意志が心的な存在だとしたら、そもそもどうやってそれが脳や身体という物理的な世界に影響力を及ぼせるのだろうか。心が物体を動かすだなんて、テレパシーや念動力を認めるのとどこが違うのだろう。

難問が新たな難問へと思索者をいざなう哲学の沼っぷりを示してくれた本。解説は一ノ瀬正樹氏。


「現代思想」青土社 2021年8月号

現代思想の自由意志特集号。

哲学者に関しては自由意志といえばこの人だよねと思うくらいに有名な人たちも並ぶ。おもしろいのは生物学者、物理学者、脳科学者、法哲学者も登場して自由意志を自由に論じている点。記事数が多く、各記事の内容もあまりかぶっていないのでお得感がある。


小坂井敏晶『人が人を裁くということ』岩波書店 2011年

私が自由意志論に強くひきつけられるきっかけとなった本。いままでの人生で衝撃を受けた本ベスト10に入るかもしれない。人が人を裁くって恐ろしいことでは? という疑問が今でも拭えない。かといって、裁きを廃止することもまた恐ろしいことである。この記事でとりあげる本の中で唯一だいぶ前に読んだ本なのだが、いまでも読み返したりするのであげておく。この本に関しては別記事でもとりあげる予定である。


ダニエル・C デネット、グレッグ・D・カルーゾー著 木島泰三訳『自由意志対話』青土社 2022年

確固たる自由意志否定論のカルーゾーが魅力的。シンプルで硬い議論を愚直にぶつけていく姿に感銘を受ける。デネットの議論はカルーゾーのものよりは常識的なもののはずなのだが、筋を追うのが私には難しい。非常に面白い対話なので読み込んでいきたいところだが、理解に骨が折れる本でもある。



以下の二冊はほんとにちょっとしか読めてはいない本なのだが有益だと思うので紹介。

高橋将平『そうしないことはありえたか?』青土社 2022年

著者はジョセフ・K・キャンベル『自由意志』の訳者でもあり、現代思想の自由意志特集でも記事を書いている。

読んだというよりはいくつかの章に目を通したレベルなので、言及するべきか迷ったが、それでもよい本だと感じたのであげておく。

成田和信『責任と自由』勁草書房 2004年

これまた私はまだぜんぜん読めていないのだが、キャンベル『自由意志』の「日本語参考文献」で高橋将平氏が「両立論的な議論についてより深く知りたいと感じた読者におすすめの1冊である」(p.139)としていたのでご紹介。自由意志・道徳的責任の本格的な研究書であり、非常にきめ細かく議論が展開されているらしい。

他にも読んだ本はあるし、おもしろいと感じたものも学びになったものもあるのだが、ひとまずこの辺にしておく。


余談


他の学問と同じく、哲学も自分のみで考えるとすぐ限界がくる。せめて先駆者の本を読んでいきたいわけだが、本って高価だ。

その点、図書館は素晴らしい。地元の図書館が充実しているのは幸福だ。大学の図書館も地元の人間ならば利用できたりする。使っていこう。

ご存じの方も多いかと思うが、カーリルを紹介しておく。



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