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〈いま〉ある時間【哲学エッセイ】


場所と時間

いまある場所にはいろいろある。いまある世界は〈ここ〉に限らない。北海道があり、岐阜があり、沖縄がある。

いまある時間はどうだろう。いまある世界は〈いま〉に限るのか。西暦2000年はなくなり、西暦3000年はないのか。

時制をまじめに取らない人がいる。

そういう人に言わせれば、時間も場所と似たようなもの。

いま岐阜にいる人にとっての沖縄と、いま2024年にいる人にとっての2000年は存在としてかわらない。距離は遠くにあるのだけれど、〈いま〉も生き生きと存在している。

ちょっと遠くの場所にいる人なら、目と視覚を通じてみることができる。ちょっと過去の時間にいる人なら、脳と思い出を通じてみることができる。

場所も時間も同じもの。〈いま〉も遠くに生き生きとそこに〈ある〉。

人間の身体では未来をみることは決してできない。これは臓器の問題で、世界の側の問題ではない。




哲学者・大森荘蔵(1921年8月1日 - 1997年2月17日)の言葉に触発されて書きました。

大森荘蔵、1973年
「過去はあるんです。二〇年前のおじいさんは今もいるんです。では脳は何か。現在この灰皿を見るために、私は目玉が要ります。同じように二〇年前のおじいさんに思いを及ぼすためには、いわば脳が目玉なんです。そういう言い方を、私は主張するわけではありませんが可能だと言いたいのです。(中略)過去のあり方は、こういうふうに目に見えるという知覚的な様態ではないけれども、思い出されるという様態であるんです。ですから二〇年前のものに私はさわれません。話もできません。知覚的に私の目で見、肉眼で見、肉声を聞くことはできない。しかしそうでないあり方で、それは私にとってあるんです。」

大森荘蔵、吉田夏彦、山本信『哲学の饗宴 大森荘蔵座談集』理想社 1994年 224-225頁


1973年の大森さんにとって、〈いま〉の私はいたのかなぁなんて考えたり。

哲学の世界では現在主義ー永久主義の対立として論じられているようです(たぶん)。現代宇宙論の新書などを読んでいると、いましかないはずはないと思えてきます。物理学者は永久主義者が多いんじゃないかなぁ。



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