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自由意志と理不尽2:暴力と刑罰【哲学】


前回の記事では、自由意志に対して否定的なことを書いた。

しかし自由意志否定論に恐怖を感じることもある。

自由意志否定論が事実だとすると、私は自由に手を上げることができない。「まぁ、それでもいいか」と流せるときも多いが、たまに恐怖してしまう。



◆犯罪被害と災害被害は同質なのか?


自由意志否定論が正しいとすれば、全ての理不尽は誰にも止められないどうしようもないものだったことになる。自由意志でどうにかできるものは塵一つなかったし、今後もない。だってこの世に自由意志はないのだから。

この考えは、犯罪と刑罰を考えるときに恐ろしいものとなる。

大事に思っている人が誰かに危害を加えられたとき、人間は怒り、相手を非難し、ときには国に罰せられて欲しいと思うだろう。災害にあったのとはわけが違うのだから当然の反応だ。

しかし本当は自由意志がないのならばどうか。事件でさえ〈加害者が起こした〉のではなく〈世界にただ起きた〉ことだと言えてしまう。加害者はただ物理法則に従うがまま、あるいは遺伝や環境に押されるがまま、川の水のように加害へと流されただけ。ある意味では、〈他人を害する現象〉に見舞われた被災者なのだ。

では刑罰によって加害者の自由や財産を奪い、ときには死に至らしめている現実世界は理不尽ということにはならないか。そしてこの理不尽を〈加害者が自由意志でやったことだから因果応報だ〉などと決めてかかることも重ねて理不尽なのではないか。

以下、社会心理学者の小坂井敏晶氏の文章を引用する。

私の頭にこびりついた部分である。

小坂井、2011年
「壊れた機械を修理したり、スクラップにして破棄処分するように、社会にとって危険な人物は再教育したり、刑務所や精神病院に閉じこめたり、あるいは死刑に処すればよいという意見が出るかもしれない。しかし、正常に機能しない機械は修理するか壊すという発想ならば、責任は無駄な概念になる。それに、欠陥を持つ生物機械として破棄するならば、極悪人を死刑に処す場合でも、同情と憐憫をもって安楽死させるはずだ。本人のせいではないのだから、敵意を抱くのはおかしい。
 病気や怪我が原因で車イス生活を余儀なくされる人に対して、歩けないのは当人が悪い、自己責任だという暴論を我々は認めない。しかし行為の責任も同じ論理に依っている。両親から受け継いだ遺伝形質に、家庭教育や学校教育など後天的な影響が加わって人格ができる。そしてその人格が、その時々の社会条件に応じて行為を生む。だから善行であれ悪行であれ、行為の原因は当人をすり抜ける。悪人を処罰するということは、身体障害者に対して、それは自業自得だと突き放すのと変わりない。実は我々は、このような恐ろしいことをしているのだ。しかし、自由意志という虚構のおかげで、この論理構造が隠蔽される。」

小坂井敏晶『人が人を裁くということ』岩波新書 2011年 155-156頁


哲学者、科学者として真面目に研究している人々の中でも自由意志否定論は根強く、近年ますます発信力を強めている模様。

ダーク・ペレブームという哲学者は『自由意志なしで生きる』という本を書いている。そこでは自由意志が信じられずとも道徳システムは機能し、むしろ世界はよりよくなるとさえ論じられているそうだ。

ペレブームによれば、悪事をした者への対応として許されるのは隔離まで。危険な病原体への感染者がいるとしよう。「その人のせい」ではないのだから罰するのはおかしいが、社会防衛のために隔離することは許される。そして人間に自由意志がないならば、誰に対しても同じ理屈が成り立つ。隔離することならば許されるが、罰するのはおかしい。

戸田山、2014年
「というわけで、ペレブームは、悪事を犯した者に対する社会の対応として唯一正当化できるのは「隔離」だとする。これは、危険な病原体への感染者を隔離する正当化理由とのアナロジーによるものだ。社会を守るために感染者を隔離することが、社会には許されるだろう。これは、感染者が病気に責任があるか否かに関係ない(というより、自由意思を認めている現在ですら、感染者に責任はないと考えられるだろう)。(中略)まず、この考えに立つ限り死刑は正当化されない。それは、社会を守るためだからといって、感染者を殺すことまでは正当化できないのと同様だ。」

戸田山和久『哲学入門』筑摩書房 2014年3月10日 388-9頁


この世界には、本当に、自由意志がないかもしれない。犯罪者は本当になす術はなかったのかもしれない。だから正当化できるのは隔離までなのかもしれない。これは私にとって「頭ではわかるが身体はついていけない」世界観である。

加害者も被害者も含め、全人間を〈モノ〉と同視しているようで、違和感と拒否感が拭えない。特に犯罪や戦争の報道に接すると〈なるようになっただけ〉とは考えたくなくなる。

かといって小坂井氏らが示している理屈を「不謹慎な議論だから無視する」と言って片づけるのも居心地が悪い。

よって「自由意志概念とは何なのか」「自由意志は物理法則や遺伝・環境要因で否定しきれるものなのか」「自由意志否定論と責任概念とは両立しないのか」等々を掘り下げたいと動機づけられる。実際、疑問は色々あるのだ。例えば、「全ては遺伝や環境のせい」だといっても、そもそも「遺伝や環境」の一部はまさに私自身だろう。「遺伝や環境の決定」と「私の決定」を切り離す論理もけっこう怪しいと思っている。これは以下で少し述べた。


ただ、本記事では概念の分析ではなく、あくまで実践に関する話をする。

◆自由意志否定論を信じて生きる、とは?


現実問題、人々が「自由意志はない」という信念を共有することは想像しがたい。犯罪の加害者でさえ、言い訳ではなく本心から「自分に自由意志はなかったのだ」と信じることは難しいのではないか。

自由意志否定論を信じたフリをして生活することはできるだろう。「自由意志なんてない」とたまに自分に言い聞かせればよい。日常生活で「あなたは自由意志をどうお考えで?」と聞かれることは通常ないので、その信念が真摯なものかを質されることもない。

だが、たとえば私が裁判員に選ばれたときに、「本当は誰にも責任はないのだ」という心持ちで評議に臨むことはできそうもない。確かに被告人に同情に値する具体的事情があれば減刑を考えるだろうし、精神障碍による行為だったならば場合によって責任を減免すべきか考える。だが自由意志否定論はそういう次元の話ではなく、すべての人間についていっさい自由意志はないというのだ。これを信じた実践はできない。あまりに被害者を軽視している。裁かれる側にしたって、「あなたの行為はただ起きただけです」という理屈は信じられないのではないか。信じたフリならする者もいるだろうが。

そもそも自由意志否定論を信じて生きるとはどういうことなのか。

興味深いのは、ブラックモア氏の見解である。以下は自由意志を信じていない哲学者ブラックモア氏が、神経科学者グリーンフィールド氏に対して行ったインタビューなのだが、ブラックモア氏の主張がすごい。

ブラックモア、グリーンフィールド 2009年
「――あなたに自由意志はありますか?
スーザン
 それはいちばんおもしろい問題の一つで、しょっちゅう戻って考える問題ね。わたしはサールがそんなに好きじゃないけれど、でもしょっちゅうかれを引用するわ。サールは、レストランに行ってハンバーガーを注文するとき「おれは決定論者だから、遺伝子が何か注文してくれるまで待とう」とは言わない、と言っているの。
――わたしはしますけど。サールがそうしないというのはおっしゃるとおりだけれど、でもわたしはレストランに行くと「これはおもしろいわ。メニューがあるけど、自分はいったい何を注文するのかしら」と思うんです。だからそういうことは可能です。でもあなたはどうするんですか?」

スーザン・ブラックモア著 山形浩生、守岡桜訳『「意識」を語る』NTT出版 2009年 131頁


メニューがあるけど、自分はいったい何を注文するのかしら!?!?

奇怪すぎて笑ってしまったし、「自由意志を信じないというのはこういうことなのかなぁ」とも思ったが、改めて考えるとそういうことではなかろう。自由意志否定論者であるために、「いったい今から自分はなにをするのかな?」と自問する必要はない。自問をしようがしまいが、どちらにせよ自由意志はない。だから何ら生活様式を変える必要はない。

天動説から地動説に乗り換えたところで、べつに生活様式は変わらないだろうが、それに似た話。自由意志否定論はもっと抽象的なレベルでの話なのである。ブラックモア氏は律儀すぎて的を外しているのだ(好感はもてる)。

……しかしなぁ。

だったら、そんな抽象レベルの話が、実践に変化をもたらせるのか、もたらすべきなのか? 今度はそちらが怪しげに思えてくる。

そもそも自由意志ついて誰が何をどう考えようが、どう判断していかに行動しようが、それらも自由意志によるものではない。

「犯罪もただ起きること、刑罰もただ起きること、誰も悪くない。今まで通り」

そういう話にならないだろうか。

ブルクハルト『ギリシア文化史』には、古代ギリシャ人について次のような記述がある。

J・ブルクハルト『ギリシア文化史』
「しかしながらギリシア人は、各人に自分の行為に対して責任を取らせ、それに基づいてその人を処遇するなどということを一瞬たりとも考えたことはなかった。これらの古典的表現は、盗癖のある奴隷についての有名な逸話であり、この奴隷は、自分には盗むことが運命によって定められていた、とあくまで主張しようとしたところ、こういう返事をもらったのである。そうだとも、だが殴られることもな!――刑罰権は刑罰の運命に変わることもありうるのである。」

J・ブルクハルト著 新井靖一訳『ギリシア文化史 第二巻』筑摩書房 1992年 169-170頁


古代ギリシャに限らず、自由意志が刑罰の根拠になったのは比較的最近の話だ。刑罰の歴史は、自由意志の歴史よりずっと古い。自由意志を誰も信じなくなったとしても、刑罰は平気な顔をしているかもしれない。

刑罰論の話はもう少ししておこう。


◆自由意志否定-刑罰廃止論の論理を検討


私が思うに、自由意志否定論から刑罰廃止論を導くためには、「基本的人権の尊重」などの観念が自明視されている必要がある。しかし自由意志否定論は、肝心の人権観念を弱めてしまうと危惧する。

どういうことか?

まずは私が(ある程度)説得力を感じるタイプの「自由意志否定-刑罰廃止論」の仕組みを大雑把に述べよう。

論理構造


1:より大きな利益のためだとしても、原則として侵してはならない基本的人権が存在する(基本的人権)。

2:刑罰はその性質上、基本的人権を制約する。そうした制度が正当化される根拠は、犯罪抑止と応報に求められる(刑罰制度の正当化根拠)。

補足:刑罰の目的は教育であるという教育刑論もあるが、基本的な疑問が二つある。第一に、教育が目的だとすると、ことさら刑罰という強権的方法に拘る理由が分からない。第二に、自由主義国家において、生命・自由・財産への制約を伴う〝国家による教育〟が許されてよいのか疑問である。ゆえに通常持ち出される刑罰の正当化根拠は犯罪抑止と応報なのである。

3:犯罪抑止効果を理由として基本的人権を制約することは許されない(どんぶり勘定型功利主義の否定)。

補足:仮に犯罪抑止効果が大きかったとしても、無実と分かっている人を罰することや、犯罪行為者当人ではなく犯罪者の大切な人を人質・身代わりとして罰することは正当化されないだろう。それらは処罰される者の基本的人権を不当に制約するものだからである。基本的人権に対し不当な制約を加えることは、より大きな利益のためだとしても許されない。
さらなる補足:功利主義にはさまざまなタイプがある。3は功利主義一般を否定するものではない。

4:自由意志により犯罪行為を行った当人に対しては、その者の責任の範囲で刑罰を科すことが正当化される。自由意志により法益を侵害した者は、応報に値するからである。この限りにおいて、基本的人権は制約される(応報による処罰の正当化)。

補足:私は刑法・・の正当化と処罰・・の正当化を分けて考える見解に説得力を感じている。それは、ある犯罪類型を処罰する法律・・・(殺人罪など)を制定してよい理由は犯罪抑止効果で説明し、その法律に基づいて特定の者を処罰・・してよい理由を応報に求める見解である。この見解だと、犯罪抑止効果がない〈罰することを主目的にした法律〉が制定されることを防げる。同時に、犯罪抑止を直接の目的として処罰される者をなくすことができる。処罰自体はあくまで行為への応報という観点からなされているためだ。

さらなる補足:応報が刑罰を正当化する理由となるのか、なるとして何故なるのかについてはさまざまな見解がある(別記事で検討したいテーマ)。自由意志が否定されても応報はなお正当化されるかもしれない。

5:自由意志は存在しない(自由意志否定論)。ゆえに4によって刑罰が正当化される事例はない。

補足:自由意志は存在しないのか、ここが哲学的論点である。

6:基本的人権を制約する刑罰が正当化できる根拠は、犯罪抑止と応報であった。しかし自由意志がないのなら応報は刑罰を正当化できず、残された犯罪抑止も基本的人権の制約根拠にはできない。ゆえに刑罰制度は正当化できない(刑罰不当論。2、3、4、5より帰結する)。

7 正当化できない制度は廃止すべきである(刑罰廃止論)。


批判


上記議論を批判する仕方はさまざまありえる。だが、先述の通り本記事で注目したいのは、自由意志否定論のもとでは「1」の基本的人権の観念がダメージを受けるだろうということ。

以下それについて述べる。

原則として侵してはならない基本的人権が存在するからこそ、それを制約するためには相応に強い根拠が要請されるわけだ。

さて、では基本的人権の根拠となっているのはどのような観念なのか。これも諸説あるわけだが、国際人権規約前文によれば、「人間の固有の尊厳に由来する」と説明されている。


しかし「人間の固有の尊厳」とは何なのだ、そんなものがなぜあるといえるのか? と問いは続き、これに答えるのは難しい。

造物主を持ち出す議論は説得力を弱めている。その他の根拠としては、人間が理性的存在者であることがよく持ち出される。しかし理性至上主義は根拠が弱いし、大変いかがわしい。それに理性のある動物も、理性のない人間もいる。「人間は自律性をもつからだ」といっても、自律していない人に尊厳はないのか、という話になる。社会性や喜怒哀楽などの感情を持ち出すなら、これまた多くの動物が入って来るし、人間でも外される者がでてくる。生命だから尊厳があるのだ、といえば全生命に平等な尊厳を認めないといけない。

「人間の尊厳」とは、恐怖と欠乏に溢れた人類史に対する自覚的な反省から生じてきた観念であり、もっともな由来をもってはいる。しかし、それは確固たる理論に基礎づけられているわけでも、単一の根拠が広く共有されたわけでもなく、人間は特別だという人々の確信によっているのが実情だろう。

自由意志否定論に基づく刑罰廃止論は、それが真剣に信じられる限り、こうした尊厳の確信に対して揺さぶりをかけるものだと考えられる。

というのも「犯罪者を罰するのは障碍者を罰するようなものだ」「被害者はただ天災にあったようなもので、加害者への応報は正当化できない」そういう話をしているのだ。だったら、何が人間の尊厳だ、何が基本的人権だ、と不信に思う人がでてくるだろう。自由意志の否定によって尊厳や人権への信頼が揺らぐならば、刑罰廃止論の説得力も落ちる。自由意志の否定から刑罰の廃止まですんなり接続されるとは思えないのである。

再批判


が、「結局のところ自由意志否定論に基づく刑罰廃止論には根本的に反対なのですね?」と問われると、これまた答えに困る。

上記の理屈は「自由意志否定論が事実であるかはともかく否定論を信じて実践することは人権思想にとって危険なのでやめましょう」という話。事実ではなく実用によって信じる対象を決めるという論理は居心地が悪い。

この点、刑法学者の植松正氏は割り切っている。自由意志は存在しないがフィクションとして存在することにしている、法は大衆の信念から遊離しすぎては機能しないからそうするのだ、という趣旨をはっきり書いている。

植松正著 日高義博補訂『新刑法教室Ⅰ 総論』信山社 1999年 8-11頁参照

明快な論旨に感銘を受けたものの納得はできない。「私は神などいないと思っているが、大衆は神を持ち出さない説明には納得しない。だから刑罰理論も神を組み込まないといけない」「大衆は神を信じているので、この罰は神罰だと考えよ」との議論とどこまで距離があるだろう。

というわけで、私はうだうだ悩んでいる。しかし悩んでいること自体には悩んでいない。この問題は実際に難しい問題なのだから仕方がない。

自由意志論の発展には引き続き注目している。


余談

そういえば、十数年前にこのページをみて、「面白いなぁ」と思った後に、「あれ、本当に自由ってないの?」「あ、怖! 怖いっ!」と軽いパニックを起こしたのを思い出した(懐かしい)。


なお飲茶氏のこの議論は今はやりのタイプの自由意志否定論とは種類が違い、興味深い。今はこの議論に恐怖を感じなくなったが、別の種類の自由意志否定論の中には怖さや嫌な感じを拭えないものもある。



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