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自然落下は走馬灯の速度で

 あっ! と思ったときにはもう手遅れで、わたしは超高層ビルの屋上から足を踏み外していた。

 状況を理解した瞬間、股の間がきゅっと縮み上がり全身の筋肉が硬直した。恐怖が即効性の猛毒のように全身に回っていく。血が出そうになるほど強く食いしばっている歯の間から抑えきれなかった悲鳴が漏れる。

 思うように動かない体に反して、思考はやけにクリアになっている。
 時間がたつにつれて周囲の風景の変化速度が上がっている事に嫌でも気がついた。重力加速度9.8m/s^2が容赦なくわたしにのしかかっているのだ。

 ぎりぎりと頭を上げて、進行方向に目を凝らした。遠くの方でコンクリートの地面が今か今かと待ち構えていた。脳裏に赤黒い肉片がコンクリートのシミになっている様子が浮かぶ。

 わたしは無意識のうちに手足をがむしゃらに動かしていた。空中を泳いでいるつもりなのか、なにかにしがみつこうとしているのかは体の持ち主である私にも分からなかった。
 もちろん、そんな悪あがきには意味はまったくなかった。

 数十秒も立たないうちに、地上にいる人や車両の姿があらわになった。誰もわたしには気がついていないようだ。

 もうダメだ。

 地面が目と鼻の先まで近づいた時、自由落下していた私を含めた全ての動きが止まった。わたしの視界がだんだんぼやけていき、しまいには周りの風景が認識できなくなった。

 そして唐突に、膨大な記憶が無作為に、そして矢継ぎ早に頭に浮かんでは消えていった。それはまるで実際にその出来事を傍で観察しているように鮮明だった。
 体感にして5分ぐらいだろうか。幼い頃、誕生日プレゼントにサッカーボールを買ってもらった時の記憶が最後になった。

 そして、わたしの時間はもとに戻り、地面に衝突すると同時に意識を失った。

『これにて実験は終了です』

 無機質なアナウンスが聞こえてきて、わたしは意識を取り戻した。
 すぐに数人の係員によってわたしからVRヘッドセットとウェットスーツのような実験着が手際良く外されていった。
 先程飲まされたクスリのせいか衝撃の強い疑似体験のせいか、体は震えるし吐き気もする。

 ラボは学校の体育館ほどの広さの部屋でわたしはその中心――黄色と黒のポールで囲まれた3メートル四方ほど空間の中――で薄いウォータークッションに座り込んでいた。頭上に目をやると、プールの飛び込み台のような台座が鎮座している。たしか、高さ10メートルだと説明された。今、わたしはあそこから吊り降ろされてきたのだ。

 わたしはゆっくりと立ち上がり、体をほぐすように動かした。しばらくすると体の震えはだんだんと収まっていった。

「お疲れ様でした。ご気分はどうですか?」

 背後から聞こえてきた声は、わたしに向けて発せられたようだ。わたしはノロノロと振り返った。先程実験内容の説明を担当していた女性が柔らかい笑顔をわたしに向けていた。

「ええ……多少クラクラしますが大丈夫そうです」
「そうですか。もし、ご気分が優れなかったら休んでもらってても大丈夫ですよ」

 彼女は気遣わしげにそう言った。
 まだ頭も体も回復しきっていなかったが、彼女の前で情けない姿は見せたくなかったのでその場で飛び跳ねてアピールをしようとした。男は得てして自分に笑顔を向けている女性の前では格好をつけたくなる生き物なのだ。

「いえ、大丈夫ですよ。ほら、この通……うぉっ」

 わたしは見事に着地失敗して尻餅をつき、おとなしく休む以上に情けない姿を晒してしまうのであった。
 彼女はそんなわたしを見て、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「ふふ、確かに元気そうですね」

 わたしは「へへへ」と照れ笑いを浮かべて立ち上がった。
 彼女は、手提げかばんから取り出したバインダーを差し出してきた。

「こちらレポートになります。忘れずに記入をお願いしますね」

 わたしは素直に差し出されたバインダーを受け取った。バインダーには用紙とボールペンが付いていた。

「用紙はバインダーに挟んだまま入口の受付スタッフにお渡しください。ボールペンは良ければ持ち帰っちゃってください。書きやすくて長持ちするって結構評判いいんですよ、そのボールペン」
「へえ、そうなんですか。それではありがたく頂戴します」

 わたしは若干おぼつかない足取りでラボから出た。

 入り組んだ廊下を5分ほど歩くとエントランスに出た。中央に置いてある大時計を見ると11:30だった。そう知ったとたん空腹感が湧いてきた。今日の実験のために朝食を抜いてきたのだった。

 昼食を食べるためにはレポートの記入を済ませておかないといけない。わたしは近くの緑色のソファーに腰掛けた。
 レポートの詰問は大半が選択肢形式だった。実験語で頭がまわらない被験者への配慮だろうか。実際、ありがたく感じた。わたしはあまり考えずに選択肢に丸を書いていった。

 1/3ほど埋めた時、誰かが近づいてくるのを感じた。顔を上げて確認するとわたしが所属しているゼミの教授が立っていた。何も知らないわたしを、説明もなしに半ば強制的に連行した張本人だ。

「おう、おつかれさん。どうだった? なかなか面白かったろ?」

 そう訊かれて、実験の記憶が思い出された。ビルから足を踏み外したこと、空中を自由落下したこと、地面が目と鼻の先まで来たこと。とたんに吐き気が押し寄せてきたが、さいわい胃の中は空だったので出るものはなかった。

「いやいやいや、面白い要素なんて何1つなかったんですけど。もう二度とやりませんから」
「ガッハッハ、みんなそう言うんだよな」

 教授が大きな口を開けて笑った。わたしはこれみよがしに不快感を表した表情を作ってみせた。

「ああ、悪い悪い」と、教授は全く悪いと思っていなさそうな謝罪を口にした。そして、手に持っていた缶コーヒーを渡してきた。「これでも飲んで気分を直せって」
「どうも」

 わたしは缶コーヒーを受け取った。プルを開けて口に含む。安いコーヒーの苦味が口の中に広がり気分が和らいでいく。一口もう一口と飲むとすぐに空になった。
 実験の緊張のせいか、自分でも知らないうちに喉が渇いていたらしい。所詮仮想空間内の出来事だとはいえ死にかけたのだから無理もないだろう。
 その様子を見ていた教授は、苦笑いをして2本めの缶コーヒー――自分が飲むために買ってきたものだろう――を見せた。

「飲むか?」
「いただきます」

 空きっ腹にコーヒーはあまり良くないとはわかっているが、喉はまだ渇きを主張していた。
 しばらく私は、2本目の缶コーヒーをじっくり飲みながら教授と他愛のない世間話をした。

「それでよ。見えたのか?」

 世間話のネタが尽きて、さてレポートに取り掛かろうとした矢先、教授がそう切り出した。

「え? 見えたって、なんのことですか?」
「なんのって……ばっかお前、記憶だよ、過去の記憶。ほかに何があるんだよ」と、教授が呆れたようにそう言った。
「ああ。――そうですね、見えましたよ。頭に浮かんだって言ったほうが正しいような気がしますけど。確かに過去の、それこそよちよち歩きの記憶もありましたよ」
「ほう、フカシじゃないよな?」
「フカシって。ここで嘘ついてどうするんですか」
「そうか、実験は成功したか。そうかそうか」

 教授は腕を組んでうんうんとうなずいた。

「なんですかその反応は。失敗すると思ってたんですか?」
「ん? ああ――あのよ、実はこれまで10人ばかし連れてきて同じ実験をやったんだけどな、成功したやつは2人しかいなかったんだ。他のやつはいつの間にか気絶してたとか、ただ落ちて地面にぶつかっただとかそんなんばかりだったんだなこれが」
「へぇ。そうだったんですか」

 意外だと思った。頭がいいわけでもなく感受性が豊かなわけでもないわたしですら見れたというのに。人間の脳というものはそう単純なものではないということなのだろう。

「ところで、教授はどうだったんですか?」
「俺? 俺は試してねえよ。もし俺がやったらショックで心臓が止まっちまうっつーの。長々と説明されたんじゃないか?」

 言われてみると、実験前に受けた説明でそんなことを聞いたし、契約書類にも書いてあったことを思い出した。

「思い出したか? もし誰でもいいんだったら、自腹を叩いてまで俺のところのやつを連れてこないって。お前は今年のやつの中で一番丈夫そうだったからな。そういうことだ」

 確かにわたしの誇れるところと言えば、人一倍体が丈夫なところなので、適材適所と言えばそうなのだが……。

「それにしても、一言説明してくれても良かったんじゃないですか?」
「説明したら着いてこなかったろ」
「まあ、そのとおりですが。あとで報酬ちゃん払ってくださいね」

 私はそこで会話を打ち切っていい加減レポートを片付けることにした。
 腹も減っているのだ、教授との無駄話に付き合っている暇はない。教授は「ちょっくら挨拶回りしてくるわ」といってどこかへ歩いていった。

 最後の詰問までそう時間はかからなかった。そして、最後の詰問はこうだった。

『詰問50。実験中、過去を想起した方のみ回答ください。想起した記憶の内容は、実験終了後でも覚えているかどうか、選択肢から一番近い物を選んでください。また、試験終了後からこの詰問を確認するまでの大まかな空白時間を下の空欄に記入するように。
1.全て覚えている
2.大方覚えている
3.あまり覚えていない
4.全く覚えていない』
 再び大時計を見ると12:15。教授との会話に、必要以上の時間を取られていたようだ。

 回答はというと、さすがに全て覚えているとは言えないが大方は覚えているはずだ。思い出したくなかった記憶を嫌でも見せられた不快感は、ヘドロのように今もまだ胸にこびりついてる。
 選択肢の2に大きく丸を書こうとした瞬間、頭の片隅で何かが引っかかった。なんだ、この違和感は?
 その疑問はすぐに晴れた。

 わたしは実験中に過去の"記憶を見たこと自体"ははっきりと覚えているのだが、その時見た"記憶の中身"を何1つ思い出せなかったのだ。写真はあるが何も映っていない。そんな感じだ。
 試験前まで覚えていた事は問題なく思い出せるので、脳にダメージがあるわけではないだろう。そう思いたい。

 なぜか考えてみたが、明確にこれだと思える答えは出てこなかった。あたりまえだ、私の専攻はスポーツ科学だ。専門外もいいところである。
 まあ、思い出せないのならば仕方がない。これは試験ではないのだ。それ以上考えるのは止めておとなしく選択肢4に丸を描いた。

「それにしても、どうなんですかね。あの実験は」

 レポートを書き終えた後、施設内にある食堂でカレーをおごってもらい――これも報酬に入っている――教授の車でうとうとしていたわたしは、ふと思いついた疑問を口に出した。

「どう?」

 運転席でハンドルを握っている教授は進行方向から視線を離さずに聞き返してきた。

「正直あの実験……いや、あの装置に意味があるようには思えなくて。仮にあの装置が完成して、誰でも過去の記憶を呼び起こさせられるようになったなったとしても、自殺をしようとするまで追い詰められた人がそれだけで『よし、自殺やめよう』ってなるかっていったら、そうはならないと思うんですよ」

「ああ、そういうことか。確かに、素人目で見る限り、あまり効果はなさそうだよな。そもそも、あの装置が完成するのかどうかも疑問だよな。それでも、専門家の奴らがわざわざ研究してるんだ。何か意味はあるんだろう」

 教授はそこで一旦区切ると、チラッと私の方へ視線を向けた。

「お前はどうだった? 良い記憶の1つや2つはあったんだろ? それ見て人生悪いことばかりじゃなかったなとか思わなかったか?」

「うーん……どうでしょう。そもそも、わたしの人生はひどいものだなんて思ってないですからよくわかりません。それよりも前見て運転してください」
「あいよ」
 
 そこで会話が途切れた。わたしは何気なくラジオの電源を入れた。一昔前に流行っていた――わたしもよく聞いていた――ポップミュージックが流れていた。私は目を閉じて曲に耳を傾けた。当時の記憶がおぼろげに思い出される。

「それとあれだ」

 曲が終わった時、教授がつぶやいた。

「はい?」
「さっきの話の続きだが、単純に、落下死の恐怖を体験したら、少なくとも飛び降り自殺はしなくなるんじゃないか?」
「……確かに、それはありそうですね」
 
 わたしは実験の最後、自由落下が終わる直前を思い出して、身体をブルッと震わせた。

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