Shotgun Wedding プロローグ 01

Let’s build a stairway to the stars.

And climb that stairway to the stars.

With love beside us 
to fill the night with a song.

We’ll hear the sound of violins
out yonder where the blue begins
.
The moon will guide us, 
As we go drifting along.

二人で星への階段を架けて

そして星まで登っていこう

二人の愛とともに、この夜を歌で満たそう

バイオリンが聞こえてきたら
青空が始まるあの彼方まで

月の導かれるままに、二人漂っていよう

Stairway To The Stars / Ella Fitzgerald

星へのきざはし / エラ・フィッツジェラルド

1

深夜、ウラジオストクの港沿いは風が強く、雪が降っていた。ロシアの冬はひどく寒い。海は凍り、時々きりきりと音を立て、わずかに波の音が、それ以外は潮風だけが鳴り響いていた。

港近くの四階建てアパートメントにトーシャはいた。そこにはもう誰も住んでいない。老朽化が原因で取り壊される予定になっていた。外には見張りの男が二人。設備室がある地下の廊下で、トーシャは金属製の錆びたベンチに腰掛けて煙草を吸いながら、かすかに聞こえる雑音に耳を澄ませていた。

一定周期で聞こえる鈍い音。
うめき声。
生き物のような、風の音。

トーシャの後ろ、地下の一室には、四人の男と人間だったものがいくつかの欠片になって、テーブルや床に転がっていた。男の一人は両手両足をテープで縛られ、床へ倒れている。縛られた男の顔は赤く膨れ上がり、服も汚れ、血だらけだった。

「疲れちまったよお。ねえこいつ、もう喋りませんよ。グリゴリーさん」木製の棒を持っていたメイヤードが聞いた。棒には血が付着している。

「黙っていろ」
「おい。お前を逃がそうとしたやつが他にいるんだろう?」長身で筋肉質な男、グリゴリーは、縛られている男に質問した。

沈黙。

メイヤードは棒を、縛られた男の左ほほに軽くぶつけたり、肩に乗せたりしていた。数十秒後、メイヤードは舌打ちをした後、棒を振りかざし、男の左腹部を殴った。縛られた男はうめき声を上げ、少ししてまた沈黙が訪れた。
男は何も喋らない。その一点のみを、命をかけて守っていた。

ドアの開く音が聞こえ、トーシャが入ってきた。トーシャとグリゴリーの目が合う。


「もういい。殺してやれ」
トーシャは言った。「始末するか?」グリゴリーが聞き返した。

「ああ。どうせもう喋らないだろう。自分の女が目の前でこんなになっても、こいつは泣いてだんまりを決めただけだ。時間の無駄だ」トーシャは煙草を持った手を、肉片のほうへ力なく二、三回振りながら喋った。部屋の床は血だらけで、指や足首や眼球が転がっている。不規則に床へ模様を描く血痕が、暴れた形跡を物語っていた。

「お前ら、女を先に殺したのは失敗だったな」


長い静寂。
外から聞こえる風が不協和音をわずかに漏らして、張り詰めた空気を奏でている。

「分かった。おいお前ら、こいつを始末しておけ。女と一緒にバラして、全部あのバケツに入れときな」「へいへい」メイヤードはだらしなく答え、手に持っていた棒を離し、近くにあるテーブルのほうに近づきながら、自分の部下を見た。


「おい。適当に手足をテープで縛って、あいつの頭押さえてろ。暴れないようにしっかりとなぁ」「ああ」部下の顔は、真っ青で声もかすかに震えていた。冬の湖に落ちた人間の顔がこんな顔になるなぁ…とメイヤードは思い出し、口元がわずかに緩む。

突然、縛られた男が叫びながら暴れだした。それを見たメイヤードが、笑いながら男の頭をサッカーボールのように蹴った。男は苦しそうにしながら、暴れるのをやめた。部下の男は硬直した。

「どうした? 早くしろよ」メイヤードの声に反応して、部下の男は縛られた男の両手両足を背中側にロープで縛り、口をテープで閉じて頭を押さえた。メイヤードは棒を地面に落とし、ドリルをテーブルから取り上げて、縛られた男のこめかみに、その先端を持っていく。

「愛し合っていたんだねえ…。まあすぐに、会えるだろうよ」

メイヤードの嫌味に、縛られた男は特に反応を示さなかった。トーシャは、縛られた男の顔を少しだけ覗き見た。虚ろな瞳。涙や鼻水を垂れ流し、全てを諦めた人間の顔だった。気持ち悪さを感じた。トーシャはすぐに目を逸し、別のことへ思考を巡らせた。

愛。久しく聞いていない単語だった。少なくともこのアパートメント周辺には、まともなものは転がっていないだろう。ここに転がっている食用肉みたいになってしまった女や縛られている男がもしかしたら、つい数十分前までは持っていたものだったのかもしれない。

ここにあるそれは、子供が積み木を組み立てては壊すように、メイヤードが糸のこぎりやドリルを駆使して遊んでいたから、きっと、ひどく変質したものになっているに違いない。どちらにせよ、俺にはどうでもいいことだ。

目の前で起きていた出来事を、トーシャは頭の中でそう解釈した。

ドリルの音が鳴り響き、少しして、トーシャは煙草の吸い殻を地面で踏み消してから、地下室の部屋を後にした。グリゴリーがすぐに小走りで隣へ近づき、トーシャの顔を疑いながら話しかけた。


「すまん。あのバカ、調子に乗って女を殺しちまって」「ああ。でも、メイヤードはよくやっているよ。深夜手当でも出してやりな」深夜手当はトーシャがとっさに考えたジョークだった。そんなものは組織になかった。

「ああ。出しておくよ」グリゴリーは少し笑いながら喋った。「今日は特に寒いな」トーシャが言った。「…そうだな。ロシアの冬だ」

トーシャがメイヤードはよくやっている、と言ったのはある意味本心だった。マフィアでさえ、拷問には嫌悪感を示す人間は多い。

組織にとって、過剰な暴力に抵抗のない特性を持っている人間が所属していることは、少なからずプラスな要因として捉えてよかった。しかし、それはマフィアという特殊性ゆえである。トーシャはメイヤードのことを多くの理由から、あまり信用はしていなかった。

アパートメントを出て見張りに挨拶をした後、トーシャとグリゴリーは少し遠くに停めた車へと向かった。車が目の前に迫ったタイミングで、グリゴリーが少し小走りでトーシャの前を歩き、助手席のドアを開けた。

「自分で閉める」トーシャはすぐに言った。グリゴリーは少しだけため息をついた。そのまま運転席側へと回り込み、ドアを開けて席へ座り、キーを挿してエンジンを掛ける。静寂なクラシックがラジオから流れていた。車のガラスが暖房で結露し曇り出していく。

「そのまま帰るか? トーシャ」「いや。飯でも食いに行こう。お前も。まだ食っていないだろ?」「ああ。じゃあ、チェマダンに」

「いや、クイーンでいい。ロシア料理を食いたい気分じゃない」グリゴリーは少しだけ声に出して笑った。トーシャがロシア料理を少しだけ苦手なことを知っていたからだ。トーシャもグリゴリーが冗談で言ったことは分かっていた。少しだけ、トーシャも口元が笑っていた。


「ああ。ではクイーンに」透明になったガラスを確認してから、グリゴリーはハンドルを切って車を動かした。信号を三つほど通り過ぎて暗い港付近の住宅街から脱出し、この街で一番大きな橋、ソロトイモストの上を車は走っていた。

「メイヤードはあれで、人を育てるのが上手いようだ」グリゴリーはメイヤードについて話し出した。
「そうみたいだな」


それがきっかけとなり、そのまま二人は話を始めた。

メイヤードが最近新人を見ていることや、彼のこれまでの経歴を再確認するように話しながら、その能力があったのだろうということ。捕らえた男は商品の娼婦と組織から逃げようとしていたこと。ただの一般人だということ。おそらく二人だけの犯行なこと。主に業務連絡だ。およそ十分程度の会話だった。それから二人は無言になった。


外はまだ雪が降っていた。車の窓からところどころ街の灯りが見える。うるさい車のエンジン音があったとしても、ひらひらと舞う氷の結晶が時々光って見え、美しい、とトーシャは思った。


ガラス越しに景色を見ているトーシャを覗き見て、きっと雪を見ているのだとグリゴリーは思った。グリゴリーは昔のことを少しだけ思い出していた。昔のトーシャは、雪が降る度に大はしゃぎするような、明るく、よく笑う人間だった。

トーシャの住む部屋は、どこも絵画がいくつか飾られている。いつからだっただろうか、彼が絵画を好きになったのは。グリゴリーは考えていた。いつからか、トーシャは食事や被服、文学などを好んで嗜むようになっていた。

元々、トーシャは感受性が強い人間だったのだろう、グリゴリーは思った。しかし、美学と人間性は別のカテゴリーだ。トーシャの元々あった人間性は、妹が死んでから、前の人格が消えて無くなりそうなほど摩耗し、狂ってきている、ともグリゴリーは感じていた。

グリゴリーとトーシャはモスクワで出会った。以来十年になる付き合いである。グリゴリーは組織の中で、優しかった妹思いのトーシャを知る、唯一の人間だった。


車を走らせて三十分後、クイーンに到着した。正式な名称は、英語でクイーン・オブ・ザ・ストーン・エイジ。そして食事を提供する店ではなく高級売春宿だ。建物自体は五階建てで、古さは感じるが伝統的なロシア様式が随所に見られ、気品を感じさせる建造物である。

ロシアは売春を合法化していない。この店は非合法だった。トーシャの組織がクイーンのバックにいる。店名の理由は、オーナーが韓国人のゲイで英語が喋れるからだろうか。喋り方がそういったことを予測させるだけで、二人は詳しく知らなかった。トーシャはここのオーナーである、ジンとは仲が良かった。


駐車場に車を停め、そのまま裏口へ二人は向かった。そこには一人、クイーンの用心棒が立って煙草を吸っていた。男は二人に気づき、煙草を持ったまま、二人へ誠意を見せるように会釈をした。

「こんばんは」
「やあ」二人は立ち止まり、トーシャが先に声を出した。「食事をしに来ただけなんだ」グリゴリーが来た理由を補足した。
「そうですか。ジンさんですよね? 自分の部屋にさっきまでいましたよ」「ありがとう」二人と用心棒の男は一旦外で煙草を吸ってから、形式的な会話をした後に中へ入っていった。

用心棒の男は中に入ってすぐに駆け足でジンを探しにいった。トーシャとグリゴリーはゆっくりと歩きながら男の後を追った。途中、何人かの従業員と娼婦がすれ違った。

「こんばんは」「はあい。トーシャ。グリゴリー」「こんばんは。トーシャさん」「グリゴリー、今日は遊んでいくのぉ?」


トーシャはちゃんと一人ひとりに簡単な挨拶をしていた。億劫に感じるが、必要なことだと思っていた。グリゴリーはそんなことを微塵も思うことなく、いつも陽気な表情で声をかけていた。

用心棒の男が立ち止まったすぐ側のドアをトーシャがノックして開けると、部屋ではジンが赤い革製のソファに座ってTVを見ていた。「やあジン」トーシャが声をかけた。「あらこんばんは!」
ジンはそう言うと、わざわざ立ち上がってトーシャのところまで歩いていき、大げさにトーシャを抱きしめ、次にグリゴリーにも同様のことをした。

「では」用心棒の男が返事をし、部屋を後にした。ジンは用心棒へ一言礼を伝え、彼へ視線を向けて手を振った。そして手は同じ動作を少しずつ失いながら、そのままトーシャとグリゴリーの二人へ振り向いて喋り出した。

「今日もトーシャは、何か食事をねだりにきたのかなぁ? あなたはここの女の子たちと、ほとんど遊ばないものね」ジンは元々韓国で料理人だったらしく、料理ができた。それは中々の腕で、トーシャとグリゴリーは、ジンの料理が好きだった。

「まあね。なんでもいいよ。二人分作ってよ」「オーケイ。今日は寒いから鍋料理にする」「いつも助かる。トーシャがわがままいってすまない」グリゴリーが代わりに感謝の言葉を口にした。トーシャは少しだけ声に出して笑った。


「いいのよ。…あ! そういえばトーシャ。ちょうど今日うちにね、すごくきれいな子が入店したのよ!」ジンが思い出したように、突然大きな声で話した。興奮していることがすぐに伝わった。

「へえ」トーシャはこの話に全然興味がなかったが、ジンが今から料理を作ってくれる手前、無下にするわけにもいかず、仕方なく話を聞くふりをした。

「あなた、相変わらず全然興味なさそうね。でもね、その子は、ほんとに、ほんとーにきれいなのよ。それは光るような金髪でね。緑色の目をしていて、宝石みたいできれいなの! あなたと同じ緑色の瞳よぉ。ただ、女ってよりは、まだ子供ね。十三歳ですって。最近は厳しいからうちでは取り扱ってなかったけど、あの子はちょっと別だわぁ。まだどうするかは決めてないけどね。まあ近頃は、そういう要望もあったから、普通に出てもらおうかな」ジンは一気に喋った。

トーシャは十三歳という単語に、少しだけ反応した。死んだ妹と同じ歳だったからだ。しかしそれは、少なくともここにいる人間には分からないだろう。トーシャはそれぐらい、心と身体の反応を分別することができた。事情を知るグリゴリーだけが、トーシャの反応が分からずとも少し顔を曇らせていた。

「小児性愛者共のおもちゃが増えるなぁ」トーシャは嫌味を込めて、笑いながら口にした。

「おもちゃにはしないわぁ。あんな上物、多分今後めったにお目にかかれないもの。まず出しても紳士的な客用よぉ」ジンがキスを投げるような仕草をしたので、グリゴリーはレモンでも口に加えたかのような顔をしながら笑った。

「そうね。せっかくだから、一度見ていきなさいよ。ほーら!」ジンがトーシャに近寄ってきて腕を引っ張ってきた。仕方なくトーシャは立ち上がった。

ジンが今までこんな風に店の商品を紹介するようなことはほとんどなかった。初めてここに来た時と、その次だけだ。社交辞令のようなものだった。その後はトーシャがあまり興味を示さないことを察したのか、口には出しても身体を引っ張ってまで、商品を自慢するようなことはなかった。よほどの商品なのだろう。トーシャは思った。

「はぁ。グリゴリー、俺は連行されてしまった。ちょっと覗いてくるよ」
「ああ」グリゴリーは、少しだけ驚いたような顔をしていた。変な顔になっていた。

トーシャはグリゴリーに苦笑いの顔を見せながら、ジンの後を付いていった。
「アナスタシアっていうのよぉ。その子の名前」アナスタシア。よくある名前だった。何十年、いや百何年前のロシアの姫君だったか。トーシャは記憶を辿った。

トーシャはロシア人ではなく、ウクライナ人だった。ドネツクに住んでいたが、紛争が勃発して、妹と一緒にロシアへ逃げてきた。トーシャが十六歳で、妹が十一歳の頃だ。十三というキーワードが、少しだけ、妹とロシアで過ごしていた短い日々のことを、トーシャに思い出させていた。たった二年の出来事だ。

下水道の臭い。残飯を漁る毎日。マンホールの中でした他愛もない会話。何度も死んでしまうのではと思った、寒かったモスクワの冬。そして妹の死。紛争が始まる前までの家族との思い出は、記憶の中ですら眩しすぎて、鮮明に思い出せなくなっていた。


「ほら、あっちの部屋よぉ」ジンの声で、トーシャは現実へ戻ってきた。「私の話聞いてたかしら。まあいいわ」ジンが呆れたような顔をしながら、両手を上げる仕草をした。ちょうど扉の前へ来ていた。

「アナスタシア。私よ。少し失礼するわぁ」ジンは扉の前で声を出し、そして取っ手に手を掛けて部屋の入口を開けた。部屋の中は、赤を基調とした薄暗い空間が広がっていた。

品格のある部屋だった。どうやらジンはアナスタシアという少女に、かなりの期待をしている、とトーシャは思った。部屋の奥には、白い光が落ちたキングサイズほどの天蓋付きベッドが置かれていた。天蓋は薄く白いレースが垂れ下がっていたため、中はあまり見えなかった。ただ、ベッドの中には白の服を纏っているであろう少女がいることは、シルエットで分かった。

トーシャはすぐ近くにあった革張りのソファに座って、煙草を取り出し火を付けた。トーシャの煙草はジタンという銘柄で、葉巻のような芳醇な香りがした。トーシャはこの匂いを、世界で最も美しい香りの一つだと過剰に評価していた。

テーブルが近くにあった。その上には革製の灰皿とシガーカッターが規則性を持って置かれていた。

「アナスタシア、怖がらないで。この店の偉い人が一緒に来ているのよ。あなたをひと目見たいということなの。さあ、ベッドから出てきて」トーシャは見たいとまで言っていない、と声に出さず反論した。

ジンはよくこんな嘘を付いた。嘘を付いたという自覚すらないのかもしれない。きっと本人の中で都合よく変換されているのだろう。ただ、ほんの少しだけ見てみたいとは感じていたので、許してやろう、とトーシャは思った。

かすかな声のようなものが聞こえて、ベッドから這い出る音がする。トーシャはソファに座ってから、ずっと視線を足元に置いていた。少しだけ、気が滅入ってしまっていた。妹を思い出したことと、久しぶりに残虐な殺しを見たからだった。

こちらへ歩いてくる気配を感じる。
知っている音楽が流れていると気づいた。エラ・フィッツジェラルドが歌う、星へのきざはしだ。

「トーシャさんていうのよ。怖い雰囲気だけど、優しい人よ。さ、挨拶なさい」トーシャは視線を上げた。美しい少女が目の前に立っていた。

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