純喫茶ぎふまふ奇譚 第1話 漢方香る薬膳カレー

 黒い雲が現れたかと思うと、ポツリポツリと降り始めた。あっという間に大雨になったが、残り時間が少ないせいか、サッカーの試合は続行されている。得点は1対1、後半残り5分。
「ヤマショウ、出番じゃ」
 ヤマショウとは、僕のニックネーム。
「はい!」
 監督に言われて、靴紐を確認し、グラウンドに向かう。
「頼むで。最後の切り札じゃけんの!」
 足は速いが、スタミナに欠ける僕は、こういう使われ方が多い。親指を立てて、監督の言葉に応え、ピッチに立った。
 ホイッスルが鳴ると、雨が一層強くなった。芝生のあちこちに水が浮いている。選手も雨と疲れで思うように動けず、誰もいないところにボールが転ぶ。油断した味方のキーパーがルーズボールを処理するために、ゴールエリアを出たとき、相手選手が走り込んで、カット。無人のゴールに向かってシュートを放つ。味方全員が「ああ!」と絶望の声を上げた。すると、どこにいたのか、味方選手が宙を舞うように現れ、ヘディングで弾き返した。さらに、自分で拾ってドリブルしながら上がり始める。
「お兄ちゃん、前へ!」
 …武瑠(たける)?
 雨が強くてよく見えないが、ボールをキープして敵を巧みに交わす選手が、弟の武瑠に見えた。僕は最前線に踊り出て、そいつの繰り出したロングパスの落下地点に走る。とても追いつけないところに飛んでいったが、ぬかるんだ地面に落ちると、バウンドせずにピタリと止まる。左サイド、ゴールエリアのライン上で自分のボールにした。ゴールを狙うには角度がないが、パスする味方もいない。キーパーとは一対一。たぶん、ラストチャンス。
「お兄ちゃん、撃て!」
 その声に心を決めた。半歩下がって左足をテイクバック、シューズのインフロントに引っかけて、思いっきり振り抜いた。ボールはシュート回転して、水しぶきの軌跡が弧を描く。ジャンプしたキーパーの手の上を抜けて、ネットを揺らした。
 ゴール決定の笛、続けて試合終了の長い笛が鳴る。勝った。
 味方の手荒い祝福に思わず身を屈める。立ち上がると、駆け寄る選手はどうしたことか時代劇の衣装。自分だけはなぜか日本神話のような服だ。
「ヤマショウ。ようやった」
 そう言う監督は、山伏の恰好。嘴と羽根があるので、カラス天狗という奴だと思う。目から上をよく見ると…。
「塾長?」
 味方を見回したが、武瑠の姿はなくなっていた。
 いつの間にか雨は止んでいる。黄色い蝶々が肩に止まった。

 7月1日月曜日。
 午前中に病院に行き、午後は職場に診断書と病休申請を提出した。実家の母さんにそのことを伝えるため、岡山駅から広島に向かっている。とりあえず、電話で報告しておこうかとも思ったが、心配するだろうと思い…というのは、自分への言い訳。本当は言いにくいことを先延ばしにしただけだ。会えば、一層言いにくくなる気もする。
 その新幹線の中で眠った。目が覚めると、「間もなく広島」のアナウンス。
 …おっと、寝過ごすところじゃった。そうか、夢を見とったんじゃ。
 サッカーの試合に武瑠と塾長。武瑠は剣道部だったし、なぜ塾長が監督なのだろう。しかも、最後は時代劇の衣装。
 広島駅の前の長いトンネル。窓に映る自分の肩に、黄色い蝶々が止まっている。
 …新幹線の中に?
 手のひらを丸くして蝶々を覆うと、動く翅のくすぐったい感触があった。ゆっくり開いてみると、ヒラヒラと飛び出した。行方を目で追うと、ガラスを抜けて窓の外に消えた。
 …え?
 広島駅に着き、在来線のホームに下りる。蒸し暑いホームに、呉線の電車が入る。扉が開くと、エアコンの冷たい空気と特有のにおいが流れ出た。この扉から乗るのは、僕一人、車内もガラガラ。4人掛けの席の窓側、進行方向に向かって座った。
 電車が動き出すと、車窓には広島市東部の市街地。年に2、3度帰るので、懐かしいという感じはないが、しばらく職場に行かなくて済むのだと思うと、景色がいつもより穏やかに映る。
 約15分、4つ目の矢野駅に電車は着いた。10人ほどの乗客が降りる。それに混ざって階段を上がり、橋上の改札を抜ける。今度は階段を下りてバス停に行く。ニュータウン経由が待っていた。普通、実家方向に行くには、それに乗るが、母さんに何と切り出そうかと思うと、億劫になる。蝶々が視界を右から左に横切った。
 …ちょっと遠回りしながら考えるか。
 日帰りのつもりだったが、別に今日帰る必要もない。ひと晩くらい実家に泊ってもよい。
 駅から右の坂道を上がればニュータウンだが、左側、オールドタウン方向に向かった。中学、高校はサッカー部に所属していて、部活帰りに、駅横のコンビニで買い食いをするのが楽しみだった。
 …懐かしい。
 高校を卒業してから9年、帰省は実家に顔を出すだけで故郷を感じながら街を歩くことなど、一度もなかった。9年の内訳は、岡山市内の大学に4年、刑事になりたくて警察に入り、県北の交番に3年、本部の刑事部に2年である。
 僕、伊藤山翔(いとうやまと)、27歳。一応、憧れの刑事にはなれたのだが…。
 極楽橋という名前の、小さな橋に差し掛かる。橋と向こう側の道が信号のある交差点になっている。2車線から3車線に広がる扇形で両側に歩道がある。小さな川にかかっているので、橋の長さより幅の方が広い。
 睡眠不足に暑さが重なったせいか気分が悪くなった。めまいと動悸がして、生汗が噴き出す。息苦しい。蝉時雨が遠く近く、ほかの音をかき消し、陽炎が景色を歪める。
 欄干にすがって、立ち止まり、目を閉じた。
「お兄ちゃん!」
 …武瑠?
 弟の声が聞こえたような気がしたが、武瑠は3年前から行方不明。そういえば、この橋の辺りからの足取りが分からないと聞いている。今と同じ7月のことだった。
 耳鳴りのような蝉の声が消えた。目を開けると、川の上を涼しい風が吹き抜け、生気を取り戻した。心配そうに様子を窺う人もいたが、軽く手を上げ、「大丈夫です」と言った。
 いつから止まっていたのか、蝶々が肩から飛び去った。
 鼻で息を大きく吸い込み、指先で鳩尾(みぞおち)の少し下を押さえる。
「ふー」
 腹動脈の鼓動を感じながら、口から大きく吐き出す。気持ちを安定させるために、自分で編み出したルーティンである。不思議と不安やイライラが消える。

 橋を渡ると、昔は商店街だったという中浜通り。平日だからなのか、いつもなのか、人通りは少ない。僕が子どもの頃には、すでに商店はわずかになっていて、大きなマンションが建っていた。その景色からはほとんど変わっていない。
 マンションの駐車場の続きに、僕が通っていた塾があった。その建物が残っている。昭和レトロな3階建て、蔦が壁を這い上がり、迫力を増していた。1、2階が教室で、3階には塾長が住んでいた。その塾長は塾をやめて、作家になったと聞いている。
 一階が喫茶店になっている。木の看板には時代を感じる字体で「純喫茶ぎふまふ」と刻まれていた。
 …喫茶店?
 塾長はこの建物を売ったのか? ぎふまふって何? いろんな疑問が湧く。事情を聞いてみたいが、中が見えにくい店構えが一見客を躊躇させる。逡巡が好奇心を抑え込んでしまった。
 …その気弱さよ。やっぱり刑事には向かんのかな。
 入るのを諦めて、踵を返した。

 カランコロン。
 背後でカウベルの音がした。振り返ると、ガラスの嵌った木製のドアが開いて、エプロンをした若い女性が出て来た。水の入ったジョウロを持っている。
 その人は僕を見ると、ハッとした表情。
 目が合ったまま時間が止まった。
 …え、何?
 実際には、1秒あるかないかだったのかもしれない。背の高い美人は、気を取り直したように笑顔を作って言う。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください」
「あ、はい」
 店の外に並んだプランターに水を遣り始めた。
「ごめんなさい。すぐに終わります。朝、水遣りを忘れてたんです。やっと、日陰になったので」
 僕を振り返って、また、笑顔をくれた。
 …少し年下かな。
 8重歯の見えるかわいい笑顔に見惚れそうになる。
「どうぞ、先に中へ」
 変に思われてはいけないので、店内に入った。ドアに付けられたカウベルが鳴る。冷房が効いていた。ほかに客はいない。テーブルが3つ、カウンターに4席。座らないうちに、さっきの女性も店に戻った。黄色いバンダナを三角に折って頭に巻き、髪は高い位置でポニーテールに結っている。
「こんにちは、こんにちは。初めてのお客様ですね。お好きな席にどうぞ」
 カウンターの席に座ると、水を注いだコップとメニューが差し出された。
「何になさいますか。お食事ですか」
 …そういえば、ちゃんと昼飯を食べとらん。
 メニューを見ようとすると、意外な言葉。
「あの、一緒にカレー食べていただけません? 私も、お昼食べてないんですよ」
「え? あ、一緒に。いいですよ。カレーお願いします」
 「一緒に」も気になるが、なぜ、「私も」と言ったのだろう。「昼飯を食べとらん」と心で呟いたのが聞こえたかのようだ。
「元気が出る特製カレーですよ」
 「元気が出る」って、メンタルが弱っているのが顔に出ているのか。ちょっと勇気を出して聞いてみる。
「僕、元気なさそうですか」
「あ、いえ。変なこと言ってごめんなさい」
「いえいえ」
 …考え過ぎか。
 女性は冷蔵庫を開ける。
「誘っておいて申し訳ないんですけど、このカレー、鍋に作り置きしないので、少し時間がかかります。いいですか」
「はい、特に予定はないので」
「それは良かった。ぜひ、ごゆっくり」
 初めての客なのに人懐っこく対応してくれる。嫌みはない、というかかなり心地よい。
「それと、いつもは入れないんですけど、じゃがいも、入れてもいいですか」
「あ、はい。お任せします」
 ボウルを取り出し、ラップを外して、ペースト状のものを鍋に移し、背中向きにコンロに向かった。ペーストを油で溶かしながら再加熱。下茹でしてあるらしい鶏肉を投入し、穴の空いた木べらを使って炒めるように味を馴染ませる。店内に幸せな香りが立ち込める。次にじゃがいもを同じようにする。見事な手さばき。火力を上げて、魔法のランプのようなケトルから液体を注ぐと、なぜか炎が上がった。別の魔法のランプから水が注がれて、煮込みにかかる。いい香りだ。唾液腺がキュッとなる。
「ごめんなさい。お腹すいてるのに、付き合わせて」
 …気を遣うてくれよる。応えたげんと。
「マジックショーみたいで、楽しいです」
「良かった。スパイスの調合から、自分でやってるんですよ。パウダーは週に1回、ペーストには生野菜や果物を使うから前日に作るんです。1日限定5食。お昼に3人分出たから、今日はこれで終わり」
「へえ、調合からとは本格的ですね」
「このカレーは特別。手間がかかり過ぎるからメニューには書いてないんです。必ずあるとは限りません」
「そんな特別なもの、僕なんかが食べていいんですか」
 それには笑顔で答えて、カレー講座を始めた。
「カレーの基本は、香りのクミン、色のターメリック、辛さのレッドペッパー。これに、ブラックペッパー、カルダモン、コリアンダー、シナモン、ナツメグ、クローブ、ローリエみたいなスパイスを混ぜてパウダーを作る。オニオン、ガーリック、人参、ナシやリンゴをすり下ろして、パウダーと一緒に加熱してペーストにするんです。最後にお客さんを見て漢方の薬草もいくつか入れちゃいます」
 見ると、店の奥の棚にはおびただしい数の瓶や缶、スパイスや漢方薬の材料のようだ。
「薬膳カレーですね」
「ああ、流行ってるみたいですね。カレーは味も香りも強いから、少々変わったものを入れても、食べられちゃうんですよ」
「そういうことか」
 しばらく言葉が途切れ、2人で鍋を温める炎を眺めていた。彼女はそこに視線を置いたまま、確かに「あの…」と言った。何かを言おうとしたようだったが、その先はまた沈黙。
「そろそろかな」
 何かを呟きながら、何かの粉を入れて軽くかき混ぜる。
 …あれが漢方か。
 茶色い液体を小皿に取って味見、「よし」と言って頷いた。白っぽい陶器の皿の上に、メロン型で型押ししたライスを盛り、ルーをたっぷりタラーリ。色とりどりの夏野菜サラダ、ラッキョ漬けと福神漬けの小皿を添えて、和風のトレイに乗せた。
「お待たせしました。純喫茶ぎふまふ特製カレーです」
 「ぎふまふ」も気になるが、ここはカレーに集中。芳香が鼻腔から脳へと駆け上がる。サラサラのカレーは、ルーというよりスープ。ライスを通り抜けて、皿に広がっている。
「南インド風?」
「カレー通ですね。オーナーの趣味で昭和風と言ってます」
 …オーナーは別におるんじゃ。
 カウンターに並んで座り、一緒に食べた。スプーンで少しライスを崩し、ルーと一緒に掬って口に運ぶ。「旨い!」。その後、心地よい辛みに襲われる。そして、鼻をくすぐる不思議な風味。
「これ、美味しい」
「うれしいです」
 スプーンと皿が当たる音が店内に響く。旨さに操られて動く手に、咀嚼が間に合わず、スプーンが口の前で待機している。具材の硬さもちょうどいい。特に大き目のじゃがいもには存在感がある。結構な辛さ、おしぼりで汗を拭う。夏野菜を箸で摘まみ、口をニュートラルに戻す。ラッキョ漬けも美味しい。最後は皿を持って、丁寧にご飯粒をさらい、完食。スプーンを置いた。この女性、早食いの僕とほぼ同時に食べ終えた。
「ああ、美味しかったあ。ごちそうさまあ」
「ありがとうございます。じゃがいもはどうでしたか」
「ボリューム感と歯ごたえが楽しい。主役を張ってましたね」
「なんか、食レポ上手そうですね」
「へへ、そうですか。そういえば、専門店のルーにはじゃがいもが入ってないですよね」
「そうですね。この店でも私が食べるときだけです。煮込んでデンプンが溶けだすと味がぼやけて、ルーがザラザラするんです」
「なるほど。家庭のカレーでは必須のような気もしますが」
「それでも昭和の一時期、『入れない方が美味しい』と言われたことがあったみたいです」
「じゃがいも排斥運動か」
「ふふ、面白い方。実は私のじゃがいもにはひと工夫してあるんです。母に習った魔法で」
「親子魔女サマンサとタバサ」
「何ですか、それ?」
「いえ。そういえば、微かに根っこの香りがしたんですけど」
「たぶん、それが漢方。薬事法に触れないレベルで、特別に食欲の湧く成分を入れました」
「薬事法…」
「私、薬剤師だったんです。漢方も勉強しました」
「へえ、華麗なる転職。カレーだけに」
 ダジャレはスルーされた。
「でも、たくさんの香りが混ざるカレーの中で、それを嗅ぎ分けられるのはすごいですよ」
「大学のとき、カレー研の部長でした」
「ほんと?」
「うそ」
「もう、何ですか、大学のカレー研って」
 目を合わせて笑った。一時的なことかもしれないが、鬱々とした気持ちが晴れている。
 …この人、ええわ。癒される。
 初めてなのに気を遣わせない。美人だからという意味じゃなくて、顔が好きだ。ずっと見ていたい。
「あ、このお皿もかっこいいですね。カレー専用?」
「わあ、分かります? 地元の陶芸家さんのところに行って、私が造って、焼いてもらったんですよ」
「一点ものですね」
 水を飲むと、これにも微かに香りがある。
「レモンのようなミントのような、どちらでもないような」
「レモンの香りがするミントの仲間。やっぱり、お主ただ者ではないな」
 確かに、食べながら材料や調味料を推測する癖がある。皿を引きながら、彼女が言った。
「コーヒー、淹れますね」
「お願いします」
「アイスが恋しい季節ですけど、このコーヒーはぜひホットで」
「はい」
 ミルで豆を挽き始めると、香りが見えるように立ち上がった。この店のにおいのベースはこの香りだ。
「コーヒーもひと癖ありそうですね」
「ふふ、分かります? 喫茶店ですから、コーヒーは美味しくなくちゃ」
 と言って、サイフォンの準備を始めた。
「化学の実験みたいなやつ」
 魔法のランプのようなケトルからフラスコに水を入れる。ロートにフィルターをセットして、フラスコに差し込み、コーヒーの粉を入れた。
「最近はドリップが主流だけど、うちは『ぎふまふ』ですから」
「あの、その『ぎふまふ』って何なんですか?」
 その質問には答えず、表情が真剣になった。
 指をパチンと鳴らして、アルコールランプの芯を指さすと、火が点いた。
「あ! 魔法」
 驚いて、彼女の顔を見ると、ちょっと得意げな表情を返した。沸騰した水が上のロートに逆流し、粉を押し上げる。小さな木のへらで、ゆっくり混ぜる。また、無声で何かを言っている。どんどん謎が増えていく。しばらく対流させると、アルコールランプを引き、マジシャンのような手さばきで、キャップを被せて火を消した。フィルターで濾過されたコーヒーがフラスコに戻った。スタンドを持って、別にお湯で温めていたコーヒーカップに注ぐ。
「ブラックで飲んでくださいね」
「はい」
 数々の謎を置いて、カップに口をつけた。
「美味しい。何だろう、甘みがある?」
「すごい、そうです。深煎りせずに甘みを残してあります。コーヒー豆は、町内の焙煎所に特注した『ぎふまふブレンド』なんです」
「銀行の前にある焙煎所ですね。結構遠くまで香りがしますよね」
「そうそう。そこの職人さんと一緒に味見しながら、作っていただいたんです」
「こだわりますねえ」
「私、そういう人です」
 外見は優しい女性だが、芯のある人のようだ。
 コーヒーを飲み干すと、自覚できるくらい、穏やかな気持ちになっていた。
 彼女は何も言わずに、別のカップでおかわりを差し出した。ポットから注いだ違うコーヒーらしい。
「あ、ありがとうございます」
 味も香りも違うおかわりを頂きながら、時々、女店主を見る。食器の片づけなどをしているが、何度か目が合ってしまう。『ぎふまふ』の意味も、結局、聞き直せないまま、飲み終わった。
「ごちそうさま。カレーもコーヒーも美味しかった」
 彼女もさっき「あの」と言った。何が言いたかったのだろう。もっといたいが、この状態で居座るのも不自然だ。
「また、来ます」
 立ち上がって、出口に歩く。
「ぜひまた来てください。お待ちしています」
 一旦ドアを開けたが、会計を忘れていることに気付いて振り返った。見送りについて来ていた彼女の指先が、僕の手の甲をかすめた。
 バチ!
「静電気!」
「ごめんなさい。たぶん、私です」
 ビビッときた。静電気って夏でも起こるのか。
「大丈夫です。おいくらですか」
「いいですよ。フードロスになるカレーでしたから」
「僕、警察官なんで、無銭飲食をするわけにはいきませんから」
 と言うと、彼女は意を決したように、今度ははっきり、「あの…」と言った。
「あの、武瑠君のお兄さんですよね」
 彼女が言いたかったのは、それだったらしい。
「あ、はい。…武瑠をご存じなんですか」
「ええまあ。武瑠君から、お兄さんはお巡りさんになったと聞きました」
「武瑠の同級生とかですか」
「いえ…」
「あ、お名前を教えてください。僕は伊藤山翔といいます」
「君島三佐子(きみじまみさこ)です」
「君島、三佐子さん…」
「はい」
「必ずまた来ます」
 無理やり2千円を手渡すと、レジから5百円玉を出して返した。
「必ず、また来てくださいね」
 外に出ると、ドアを開けたまま、こちらを見ている。軽く会釈すると、敬礼のポーズをしてくれた。
 …かわいい!
 胸がキュンとなるというのは、こういう感じなのだろう。こんな気持ちは久しぶり。いや、初めてかもしれない。あの静電気にさえ、運命を感じる。
 …しかし、勘違いをしちゃいけんよ、山翔君。初めての客への営業トーク、あるいは友達の兄への礼儀いうこともあるじゃろうよ。
 一目惚れしそうな自分を、自問自答で抑制した。小中高とサッカー一筋、大学ではバイトに明け暮れ、警察官になってからも女性との出会いはなかった。高校のとき、押しかけ女房のような彼女がいたが、女子の気持ちを推し量るようなことは、基本的に不得意だと自覚している。
 …そういや、塾長はどうなったんじゃろ。
 素敵な女性とのときめく会話に、塾長のことなど吹き飛んでいた。

 ここからニュータウンの家に帰るには、やはり矢野駅まで戻って西に向かう坂道を上るのが普通だが、そのままオールドタウンを南に進む。途中から西に向かい、墓苑を抜けて尾根を越えることにした。中学生の頃に探検しながら下校したコースだ。
 オールドタウンにも新しい家が多くなり、駐車場が多くなっているが、銭湯が残っていた。懐かしい街を抜けて墓地に向かう山道に入る。夏の日差しに蒸された草いきれ、竹薮を抜ける道のちょっとした涼しさ、故郷の空気が傷ついた心を包み込んでくれる。
 蝉の声も2つ3つ聞こえるが、まだ蝉時雨というほどではない。極楽橋の上で蝉時雨を聞いたような気がしたが、あれは耳鳴りか何かだったのか。
 7月1日の午後5時は、まだまだ明るい太陽が残っている。大きな墓苑の尾根に上がるころには、汗だくになった。
 北側に見える水面は海田湾。西に向かって広島市街地が広がっている。
 尾根を越えると、高台にあるニュータウンの入口に着く。広島熊野道路を挟む大きな住宅団地、ここが僕の故郷だ。さらに10分ほど歩くと実家。僕が9年前にここを出て、父さんは3年前に心筋梗塞で急死し、すぐに、弟が失踪した。今は、母さん1人が住んでいる。

 自宅の鍵を開けて玄関に入った。
「ただいま」
 母さんが出てきた。
「あら、どしたん。休み?」
「う、うん」
 生返事をして、リビングに入った。
「言うてくれんけん、夕ご飯ないよ」
 靴下を脱いで、椅子に座った。
「ええよ。さっきカレー食べてきた」
「へえ、どこで?」
「菊池塾だったところの喫茶店」
 母さんは一瞬、「え?」という表情をした。
「あらそう。美味しいいうて評判らしいね。こないだミニコミ誌に出とったよ」
「評判のお店じゃったん。知らずに入った。母さん、行ったことあるん? はい、お土産の吉備団子」
「ありがと。毎度、ワンパターンじゃね。店は行ったことないんよ。菊池先生が入院したかなんかで、塾生だったお弟子さんが店を継いだとミニコミ誌に書いてあったよ」
「ふーん。塾長入院しとるん? 吉備団子好きじゃ言うたじゃん」
「よう知らんけど。岡山いうたら、桃とかマスカットとかあるじゃろ」
「高い。その吉備団子はいつもと違うんよ」
「食べかけじゃん」
「そういやあ、腹が減ったけん、新幹線の車内販売で買うて何個か食べた」
 …そんなことはどうでもええ。
 三佐子さんは塾生だったのか。菊池塾は中学生専門の小さな塾なので、上下2つ違いまでなら顔くらいは知っているはずだが、たぶん見たことがない。ということは、3年生のときに1年生だった武瑠よりもさらに下ということになる。
 …23、4歳か。
 昼食後の薬飲むのを忘れていたことを思い出した。メンタルで休んでいることを報告する前に、母さんに薬を見られたくない。「シャワーしてくる」と言って、鞄を持って風呂場に行った。大きめのレジ袋に4つの薬の紙袋が入っている。抗うつ剤が2種類と睡眠導入剤、精神安定剤。昼食後はこのうち、抗うつ剤の1つと精神安定剤を飲むことになっている。昼食後といっても、もう5時半。
 シャワーをしたが、着替えを持って来ていない。もともと、日帰りするつもりだった。脱衣場に4段のベビーダンスが置いてあり、引き出しに父、ヤマト、タケル、母と書いてある。そこには下着と寝巻が入っている。自分のところを開けると、ここを出るときのまま。ティーシャツとジャージに着替えた。警察学校以来、筋トレをしているので、高校時代のシャツは、腕と胸がきつい。父さんの引き出しも、武瑠の引き出しもそのままであることを知っている。武瑠の引き出しを開けると、ルーズなシャツが入っていた。
 …武瑠、ちょっと貸して。
 風呂場から出ると、母さんがびっくりした顔をしている。
「武瑠か思うた。やっぱり兄弟じゃね」
「いつも、みんなに『似とらんね』言われとったけど」
 出窓に置いた家族写真が目に入った。中学生の僕はサッカーのユニホームを着ている。大会に応援に来てくれたときの写真だ。武瑠はまだ小学生。この家の家族盛りだ。そういえば、新幹線の中でサッカーの夢を見た。
 台所に放置してある吉備団子を2つ食べた。いつものより、黒っぽくて味にも癖がある。
 薬のせいか、急に眠くなってきた。ベッドに横になった。
 …三佐子さん、素敵な人じゃった。夢で会いたい。夢の中なら好きになってもええかなあ。
 中学生の初恋のようなことを思う。

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