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週末読書メモ84. 『人生生涯小僧のこころ』

(北海道十勝の農家6代目による週次の読書メモ)

本当に大きな困難を向き合うとは如何なることか、それを乗り越えた先にどんな世界があるか。そんなことに触れられる貴重な一冊です。


奈良県吉野山の金峯山寺蔵王堂から大峯山と呼ばれる山上ヶ岳までの片道二十四キロ、高低差千三百メートル以上の山道を十六時間かけて一日で往復し、合計四万八千キロを歩き続けるという修行です。
危険はいたるところにあります。一瞬一瞬が気を抜けません。
(中略)しかし、すべてはお山で起きること。大自然を相手に愚痴をこぼしても仕方のないことです。すべてを受け入れるしかありません。
どんなに追い込まれていても決して受け身にならず立ち向かわなくてはなりません。

千日回峰行。

開始は毎日23時(睡眠時間はわずか4時間半)。高低差1,300mの山道を往復48km、それを16時間かけて歩き進む。たった1回でも極めて困難な行程を、毎年春から秋にかけて9年間にもわたり1,000回やり続ける、という筆舌し難い修行(それも失敗したら、その場で切腹がルール)。

この1,300年に達成したのは2人のみ。そのうちの1人が、著者の塩沼亮潤(大阿闍梨)さんとなります。

常人では、想像も、真似も仕切れないような超人的修行に向き合った最中での心情、その末に掴んだ世界。それが、本書の中には描かれていました。


誰ひとりとして頑張っていない人はおりません。自分なりに何とか変わろうと、みんな頑張っています。もちろん私自身もそうでした。変わりたい、変わりたい、変わりたい。自分の短所は自分でよくわかります。しかし、変わりたいと思っても、なかなか変われない自分がそこにおりました。
(中略)人を批判せず、自らを悔い、「心から受け入れられなくてごめんね。いつかきっと受け入れられるよう努力するからね」と祈る心を持つこと、これが私の行でありました。

修行者の行というものは、
「どうしてなかなか変われないのだろう」
「なぜこんあに我が強いのだろう」
というように、いろんな悩みを自らに訊ねながら、どこにその原因があるのかを突き止めようとして旅に出るものなのではないかと思います。
(中略)人が悩み苦しむのは、頭でわかっても心の中がモヤモヤして、物事をなかなか実践できないからです。それでもあきらめずに人を思いやり、丁寧に生きていると、やがてそれぞれの人生の中に、心の中に、素晴らしい悟りの花と出会える日が来ると思います。

本書の魅力の1つに、修行過程で変化した塩沼亮潤さんの心の様子を感じられることにあります。

上記の引用は、修行序盤から中盤での心情になります。現在は悟りを開かれ、どこまでも肩の力が抜けていて素敵な人柄を持つ塩沼さん。

しかし、元々は常人と同じ悩みを持ち、自らの未熟や不徳さに足掻いた事を語られています。誰しも少なからず持つ、自我や自己愛。それは後に大阿闍梨という生きる仏のような人物でさえ、例外では無かったと。


本書の中には、千日回峰行中の日誌が載せられています。序盤、中盤、終盤それぞれの内容が下のようになります。

《行日誌 千日回峰行・序盤》
十七日目、行者なんて次の一歩がわからないんだ。行くか行かないかじゃない。行くだけなんだ。理屈なんか通りゃしない。もし行かなけりゃあ短刀で腹を切るしかない。そう、次の一歩がわからないんだ。みんなの幸せを念じ、右・左・右・左。

《行日誌 千日回峰行・中盤》
四百八十八日目、左足痛い、腹痛い、たまりません。冷たい風で体冷えたのか、節々痛い。雷なりそう、たまらん、生き地獄。

四百八十九日目、腹痛い、たまらん。体の節々痛く、たまらん。道に倒れ木に寄りかかり、涙と汗と鼻水垂れ流し。でも人前では毅然と。俺は人に希望を与える仕事、人の同情を買うような行者では行者失格だと言い聞かせ、やっと帰ってきた。何で四十八キロ歩けたんだろう。さっき、酒屋のおばちゃんがすれ違いざま、「軽い足取りやねえ、元気そうやねえ」と。俺は「はい、ありがとうございます」と答えたが、本当は違うんだよ。俺の舞台裏は誰も知らないだろう。いや知ってくれなくていい。誰に見られるということを意識しない野に咲く一輪の花のごとく、御仏に対してただ清く正しくありたい。

《行日誌 千日回峰行・終盤》
八百八十日目、苦しみの向こう、悲しみの向こうには何があるのだろうと思っていたが、そこにあったものは、それは感謝の心ただ一つ。

八百八十一日目、行とは行じるものではなく行じるものではなく行じさせていただくものだと悟らせていただきました。行とは自分を甘やかそうと思ったらいくらでも甘やかすこともできます。また苦しめようと思ったら死に追いやることも悟らせていただきました。どんなに自分を痛め付けても何も残らんし、何の役にも立たん。大事なのは心の器をいかに行の中で大きくさせるか、魂に刻むことなのだ。すべてを受け止める心ありてこそ大きな度量が備わるもの。
今年で最後の年だ、行に入る前、この八年間を振り返ったならば涙が滲んでおりました。しかし一歩今年の行に入ったなら、涙の一つこぼれ落ちない。そんな自分であり、本当に感謝いたします。

高い目標と強い覚悟を持って進み始めた序盤、人体の限界をも超越した困難に苦しんだ中盤。それらの苦しみや悲しみの先に、自我や自己愛を越えた心の平静を獲得した終盤。そんな様子が日誌には残されていました。


大自然はとても手強く、何が起こっても現実を受け入れるしかありません。台風の日があり、嵐の日があり、雷の日があります。それらを、あぁこうきたか、今度はこうきたか、こう攻めてくるか、じゃあ自分はこうして乗り越えよう、と闘っていきます。
(中略)努力を繰り返しているうちに、自分の気持ちを持ち上げるポイントをつかみました。そのポイントとはまわりの環境に左右されないようになったこと、ただそれだけのことでした。

「しなければならない」とか、「やらされている」と思えば、どんどん心が枯れてきて卑屈になってしまいます。しかし同じ環境でも、自分の気持ちで進んで乗り越えさせていただこうと思えばいい縁も広まってまいりますし、自然と笑顔も出てまいります。行も、人生も、卑屈になってはいけません。楽しまなくてはなりません。
そして最も重要なポイントは、人を恨まない、人を憎まない、人のせいにしない覚悟を持つことです。

(これは…進撃の巨人の名シーンを思い出します)

自分で決めた道と真っ正面から向き合い、粛々と歩き続けること。

合計約4万8千km(その距離は地球一周分にも匹敵)に至る果てしなく過酷な道のり・目標も、「振り返れば1日1日、1歩1歩の積み重ねを、精一杯やる以外のことは無かった」と筆者は述べます。

ああ…この塩沼さんも、果てしなく遠い先と今この一瞬の両方の時間軸を同居させられている人だ。

この2つの時間軸の同時に持つことが、今年の大きなテーマとして模索していた中、これらの3名の方の思考・行動過程に触れられたことは、本当にかけがえの無いものになりました。


最後に最も印象深かったのは、筆者語る「努力」に関してです。

元々この本は、五常・アンド・カンパニーの慎泰俊さんが、ご自身のラジオで紹介していたことから手に取りました(下リンク先の19:26~)。

その慎さんの著書『ランニング思考』(この本も、もう何度見返したか分からない一冊)。

その本の最後に、慎さんと大阿闍梨との対談が載せられています。

そんな、肩の力が抜けた塩沼さんに、いつか会うことができたらどうしてもしたかった質問をしてみた。
「私は、ウルトラマラソンをしていて、本当に苦しい状態でも走り続けることを通じて、素直な気持ちを持てたり、またとても静かな世界に入ることができることを学びました。この感覚というのは自転車に乗ったようなもので、一度感覚を覚えたら忘れないものだと思っていたのですが、でも、実際の生活に戻ってみると、数週間と経たないうちにまた元に戻ってしまいます。その度にまた長い距離を走るようになるのですが、塩沼さんほどの阿闍梨になると、そんなことはないのでしょうか。私は単に修行が足りていないとうことなのでしょうか」

これに対して、塩沼さんは次のように教えてくれた。
「私が山で学んだことは、いわば大学でものを学んだようなものです。そこにいる間は分かったような気持ちになるかもしれないけれど、実際に世間に出てきてそのままに行かせるかといえば全く別の話。私自身も、山から下りてきて世間の中でたくさん試行錯誤をしてきました。そして今があるわけです。
あなたはちょっと肩に力が入りすぎているね。そんなに難しく考えず、もっと気楽にやったらどうですか」

さすが阿闍梨、僕なんかよりもはるかに先に行っているなあと感じさせられるお話だった。

『ランニング思考(慎泰俊)』

また、本書『人生生涯小僧のこころ』のエピローグで、塩沼さんが言ったことがこちら。

「人生生涯小僧のこころ」ーーこの言葉を常に深く掘り下げる日々でありたいと願っております。原点を忘れないことは大事ですが、忘れないだけでなく常に実践しているかどうか、実際の生活の中で本当に原点に返っているかどうか、日々が挑戦です。努力です。

もう5年も前になりますが、自分も1度だけ100kmウルトラマラソンを走ったことがあります(エネルギーを使い枯らしたせいか、身体の線が普段の1回り以上も細い…)。

(2017/11/11 南伊豆町100kmみちくさウルトラマラソン)

なので、慎さんの言う100kmを越える長距離を走る中で、身体的な極限状態の先に自我が消え、目標への純粋な思いと、周りへの感謝の気持ちに溢れ、辿り着く心の平静。それを今なお鮮明に覚えています。そしてなにより、その感覚が、日常の中で気が付いたら薄らいでしまうことも…

そのもどかしさに対する塩沼さんの回答が、「日々、試行錯誤・挑戦・努力」。千日回峰行という超人的な困難を越えた先でも、それしかないと。


片道二十四キロ、高低差千三百メートル以上の山道を十六時間かけて一日で往復。九年の歳月をかけて四万八千キロを歩く。そういう苦行を経験したから、悟れるのではない。大事なのは、行から得たものを生活の中でよく実践することである。逆に言えば、それぞれに与えられた場でそれぞれに与えられた役目を果たしていく中でも、多くのことを感じ、悟ることができる。だから、私たちの人生はすべて修行なのである。

帯に書かれたこの言葉。これを胸に刻んで頑張ろう。


【本の抜粋】
奈良県吉野山の金峯山寺蔵王堂から大峯山と呼ばれる山上ヶ岳までの片道二十四キロ、高低差千三百メートル以上の山道を十六時間かけて一日で往復し、合計四万八千キロを歩き続けるという修行です。
危険はいたるところにあります。一瞬一瞬が気を抜けません。
(中略)しかし、すべてはお山で起きること。大自然を相手に愚痴をこぼしても仕方のないことです。すべてを受け入れるしかありません。
どんなに追い込まれていても決して受け身にならず立ち向かわなくてはなりません。

誰ひとりとして頑張っていない人はおりません。自分なりに何とか変わろうと、みんな頑張っています。もちろん私自身もそうでした。変わりたい、変わりたい、変わりたい。自分の短所は自分でよくわかります。しかし、変わりたいと思っても、なかなか変われない自分がそこにおりました。
(中略)人を批判せず、自らを悔い、「心から受け入れられなくてごめんね。いつかきっと受け入れられるよう努力するからね」と祈る心を持つこと、これが私の行でありました。

前を向いて笑って感謝して、明るく元気に頑張って生きていれば、人生良いことも悪いことも半分半分です。決まっていることなどないのだと思います。明日の天気もわかりません。雨降れば雨、風吹けば風。与えられた今日一日という出会いの中で恨みや憎しみや愚痴を少しづつ少なくして、なるべく皆さんにご迷惑がかからないようにと心がけて、今日も大自然の中の一員として私は人生の旅を続けております。

修行者の行というものは、
「どうしてなかなか変われないのだろう」
「なぜこんあに我が強いのだろう」
というように、いろんな悩みを自らに訊ねながら、どこにその原因があるのかを突き止めようとして旅に出るものなのではないかと思います。
(中略)人が悩み苦しむのは、頭でわかっても心の中がモヤモヤして、物事をなかなか実践できないからです。それでもあきらめずに人を思いやり、丁寧に生きていると、やがてそれぞれの人生の中に、心の中に、素晴らしい悟りの花と出会える日が来ると思います。

大自然はとても手強く、何が起こっても現実を受け入れるしかありません。台風の日があり、嵐の日があり、雷の日があります。それらを、あぁこうきたか、今度はこうきたか、こう攻めてくるか、じゃあ自分はこうして乗り越えよう、と闘っていきます。
(中略)努力を繰り返しているうちに、自分の気持ちを持ち上げるポイントをつかみました。そのポイントとはまわりの環境に左右されないようになったこと、ただそれだけのことでした。

「しなければならない」とか、「やらされている」と思えば、どんどん心が枯れてきて卑屈になってしまいます。しかし同じ環境でも、自分の気持ちで進んで乗り越えさせていただこうと思えばいい縁も広まってまいりますし、自然と笑顔も出てまいります。行も、人生も、卑屈になってはいけません。楽しまなくてはなりません。
そして最も重要なポイントは、人を恨まない、人を憎まない、人のせいにしない覚悟を持つことです。

「人生生涯小僧のこころ」ーーこの言葉を常に深く掘り下げる日々でありたいと願っております。原点を忘れないことは大事ですが、忘れないだけでなく常に実践しているかどうか、実際の生活の中で本当に原点に返っているかどうか、日々が挑戦です。努力です。

P.S.
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