見出し画像

週末読書メモ66. 『戦略的思考とは何か』

(北海道十勝の農家6代目による週次の読書メモ)

戦略的思考とは何か。国家戦略を論じる著者の思考プロセスから、それを垣間見ることができる一冊でした。


戦略論を勉強しているうちに、ハタと気がついたことがある。
私の知るかぎりで、先進国の大学で、戦略や軍事と題した講義を聞けない国は日本だけということである。

日本人というのは、過去の経緯ででき上がっているものを工夫して改善していく点ではおそらく世界一といえるくらいの能力を発揮するのですが、肌で感じないとなかなか理解しない国民なので、何もないところに論理的な整合性のある構築物をつくり上げるということになると、はたと当惑してしまうことろがあるそうです。まして、それを、コンセンサスの上に築き上げていくこととなるとまずは不可能ということになります。

本書は、筆者の日本人の戦略性の乏しさに対する問題提起から始まります。

国家戦略の欠如を憂えた筆者は、改めて日本の置かれた環境を解明し、今後の展望を提示していきます。


詳しい国家戦略の中身は本書に譲るとし、民間セクターで生きる者として非常に参考になったのは、筆者の拠り所とした切り口。歴史と地理から戦略的環境を解明したこと。

一般的に日本の旧軍の欠点として、アングロ・サクソン風の情報重視戦略でなく、プロイセン型の任務遂行型戦略を採用したことが指摘されます。つまり勝てそうかどうかの見極めをつけてから戦闘を行うのでなく、与えられた兵力で与えられた任務をいかに遂行するかを考えるということです。
(中略)こう見てくると、客観情勢の無視は、「清水の舞台から飛び降りた」太平洋戦争の開始それ自体の考え方の中にすでに存在するのであって、単に明治以来のプロイセンの影響だけでなく、おそらくは島国という恵まれた環境に育った日本民族の、世界にも稀な経験の乏しさ、そこからくる初心さが、外部の情報に対する無関心と大きな意味での戦略的思考の欠如を生んできたといえましょう。

秀吉の朝鮮出兵の例は、日本から向うに攻めていった例なので、専守防衛のわが防衛戦略の参考とはならないので割愛しますが、一つだけ指摘したいのは挑戦出兵の場合でも、白村江の場合でも共通していえることとして、日本側の戦闘能力過信と、戦略の驚くべき粗雑さ、というよりも情報と戦略のまったくの欠如です。
(中略)もっと深い日本人の「外国なれのしない」特性があるのでしょう。

辛辣笑。これはあくまで一例だとしても、共通してあることは、情報不足。

(このことは、太平洋戦史を研究した本でも同様に指摘されていました)

情報不足。もっと深掘りすると、きっと日本人は無知の知に気が付きにくい特徴があるように感じます。

現代でこそ、移動手段、そして何よりもインターネットの発達により、地理的な制約を越えて、情報を得られるようになりました。しかしながら、それゆえに、情報格差はより広がっているように思えます。

翻って自分自身も、言語、コミュニティ、時間、バイアス等により、情報の存在は感じられているのに、その情報を取りに行けていないもどかしさが大きく(なんだろうか、最近はより一層…)。

要因は様々ですが、自分のスキルやリソースが問題なのであれば、具体的に課題は特定できるので、何とか努力で乗り越えることができます。

しかし、問題は無自覚なバイアス。これは、そもそも努力の対象として認識出来ていないので本当にマズい。


バイアスを、いかに乗り越えるべきか。

一つの手段は、多様性のある環境を生み、様々な視点に触れ、自分の世界観を更新することだと耳にします。その上で、(本書から得られたことでもあるけれど)、歴史と地理から、自分自身や環境・外部世界を客観視することなんだろうなあ。

(レフ・トルストイも描いたように、自分も世界も歴史も、様々な事象の積み重なり合い、因果関係を持つものなのだから)


戦略的思考を用いるにあたり、飛躍した解を作るアブダクションは未だに使いこなせる人は僅かです。一方で、答えのある解を作る論理的思考力の中でも帰納法や演繹法は、この10年くらいで基礎能力としての地位を確立し、限られた人だけの力では無くなりました。

だからこそ、インプットで差をつくことが、より強くなるように思えてなりません。情報が得られる時代だからこそ、情報で勝てるように、今から基盤を作っていこう。

※同じ本の名前で『戦略的思考とは何か ― エール大学式「ゲーム理論」の発想法』もありますが、こちらはこちらで、ゲーム理論の名著であり良本!


【本の抜粋】
日本人というのは、過去の経緯ででき上がっているものを工夫して改善していく点ではおそらく世界一といえるくらいの能力を発揮するのですが、肌で感じないとなかなか理解しない国民なので、何もないところに論理的な整合性のある構築物をつくり上げるということになると、はたと当惑してしまうことろがあるそうです。まして、それを、コンセンサスの上に築き上げていくこととなるとまずは不可能ということになります。

秀吉の朝鮮出兵の例は、日本から向うに攻めていった例なので、専守防衛のわが防衛戦略の参考とはならないので割愛しますが、一つだけ指摘したいのは挑戦出兵の場合でも、白村江の場合でも共通していえることとして、日本側の戦闘能力過信と、戦略の驚くべき粗雑さ、というよりも情報と戦略のまったくの欠如です。
(中略)もっと深い日本人の「外国なれのしない」特性があるのでしょう。

一般的に日本の旧軍の欠点として、アングロ・サクソン風の情報重視戦略でなく、プロイセン型の任務遂行型戦略を採用したことが指摘されます。つまり勝てそうかどうかの見極めをつけてから戦闘を行うのでなく、与えられた兵力で与えられた任務をいかに遂行するかを考えるということです。
(中略)こう見てくると、客観情勢の無視は、「清水の舞台から飛び降りた」太平洋戦争の開始それ自体の考え方の中にすでに存在するのであって、単に明治以来のプロイセンの影響だけでなく、おそらくは島国という恵まれた環境に育った日本民族の、世界にも稀な経験の乏しさ、そこからくる初心さが、外部の情報に対する無関心と大きな意味での戦略的思考の欠如を生んできたといえましょう。

日清戦争の清国側の経験から学ぶ教訓は、戦争というものは、自分の国ではどうしようもない他国の内乱とか、クーデターとかの政治的事件を機にして起こることが多く、百パーセント予測するとかいうことは不可能であり、そしていったん戦争の可能性をはらむ危機的状態になると、関係国の動きは、そのときの力関係によって左右されるということでしょう。

一般的に、戦争の当事国がある地域を攻撃するかどうか決めるに際して関係のあるのは、まず第一にその地域を占領するか破壊するかと、そのあとの戦略的環境がどのくらい改善されるかということで、第二には、作戦が成功する見通しがあるか、成功してもどのくらい犠牲を払わなければいけないだろうかということです。つまり、物差しは、その地域の戦略的価値と、その地域をめぐる軍事力のバランスということです。
(中略)戦略的に重要な場所は、敵が取る前に取ってしまうのが常道です。まして、戦略的に重要で、しかも、中立国で、強力な同盟国もなく、独りで守るに足る防衛力もないところなどは取られないはずがないといって過言でありません。

戦略論を勉強しているうちに、ハタと気がついたことがある。
私の知るかぎりで、先進国の大学で、戦略や軍事と題した講義を聞けない国は日本だけということである。
(中略)ただ、先まわりして恐縮であるが、戦略論にも限界はある。戦略論を一通り読んだからといって戦略がわかるわけではない。昔から「生兵法はけがの基」とも言う。
(中略)その意味でも、まず日本の歴史と地理を戦略論の観点から何度も見直す作業の必要性が出てくる。

戦略論の教養と軍事的常識というものは、今後、単に、国民の納得する防衛体制をつくり上げるために必要なだけでなく、その大前提たるべき国家戦略をつくるためにも、また、国際政治のあらゆる場面において日本の発言に説得力をつけるためにも必要である。
要は、国際関係というものは、異なる国家のあいだの異なる国益をいかに調整するかということであり、主権国家というものが存在するかぎり、これを調整するものは国家間の力の関係であり、そして、国家が有する政治、経済、文化のすべてを含む種々の力の中で、古来何人の正確な認識のない国際関係論は、どこか心棒が一本抜けたものにならざるをえないという、常識的かつ、疑う余地のない認識をもつことである。

P.S.
農業インターン・副業・プロボノ大募集!

学年や年齢、農業経験の有無は問いません!
インターン・副業・プロボノに興味のある方は、ぜひご応募ください!
農業界の未来を、共に切り拓いていきませんか?

【①インターン】

【②副業・プロボノ】

※個別対応のため、TwitterのDMでお問合せください(下はイメージ)。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?