【エッセイ】すれちがい
知り合いと目が合うと、そんなに親しくなくても、「ああ、挨拶をせねば」という気持ちに駆られる。
だけど、そんなに仲がいいわけでもないからどんな風に声をかけていいか分からずどぎまぎしてしまう。
そうこうしているうちに、お互い牽制しあいながら、気まずい感じですれ違うことになる。
すると、なにかすごく悪いことをしたかのような、すごくもったいないことをしたかのような、罪悪感にも近いやるせない思いが湧き上がってくる。
このような経験はないだろうか。
私は、しょっちゅうある。
挨拶をしなかったのは自分だけではないのだけれど、どういうわけか自分に非があるように感じてしまって、後になって結構悩む。
あの時どうして一言でも声をかけなかったんだろう。
せめて手を振るだけでもしておけばよかったじゃないか。
相手はどう思っているだろう。
でも、自分だけがこの選択をしたわけじゃない。相手だって挨拶しなかったのだ。
だったら、別にいいんじゃないか?
自分だけこんなにくよくよするのも馬鹿馬鹿しいし、まあ、気にしても仕方ないか。
というように、自分を半ば正当化しつつ気にするのをやめるのが常だ。
しかし、意外とそれ以上深く考えたことはなかった。
いざ考えてみると、どうして自分に非があるように思えるのかいまいち分からない。
しかし、このあいだ、もしかしたらこれが理由かもしれない、というものがふと思い浮かんだ。
あの罪悪感みたいなもやもやは、ひょっとすると、人間関係の切れ目を感じて生じているのかもしれない、そう思うようになったのである。
自分から相手との関係を絶ってしまった、という負い目。
それがあの、どうしようもなくやり場のない感情の、——–胸の中のしこりのようなあの感情の——正体なのかもしれない。
こう考えると、何だか一抹の寂しさを感じるのだけれど、これは私が潜在的に人との繋がりを切望しているからなのだろうか。
でも、私はこの寂しさを感じても、次からは必ずこちらから声をかけることにしよう、という気にはどうしてもなれなかった。
いや、その気にはなったかもしれない。
ただ、それを実行しようという志はどうにも持てなかった。
私は恐らくこれからずっとこの感覚を携えて生き続けるのだろう。
願わくばせめて、この負い目と格闘できる、そんな気概をいつか手に入れたいものである。
人と人との関係がどんどん希薄になっていると言われる現代の社会で、この気概を持っている人はいったいどれほどいるのだろう。
息苦しい世界の中で人との繋がりを守ろう必死になっている人はいったいどれくらいいるのだろう。
ひょっとすると、気づかないうちに、もうすでに、この寂しさすら私達は失いかけているのかもしれない。
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