見出し画像

【ショートショート】街灯

ふと目を覚ますと、彼は一本の街灯の下で寝転んでいた。身体を起こそうとした時、右手が何かに当たり、カランという音がした。

音の方を見ると、500mlの9%のチューハイ缶が、空っぽになって転がっている。きっと酔い潰れて寝てしまっていたのだろう。

その缶を拾おうとした時、彼は左手がいつもより重いことに気がついた。左手を見ると、そこには仕事用の鞄の他に、カラフルに包装されたケーキの箱が袋に入って握られていた。

そうだ、早く帰らないと。今日は妻の誕生日だった。またどやされる。

彼はそんな日に酔い潰れて路上に寝てしまっている自らのだらしなさに苦笑し、重い身体を持ち上げて、帰りを急いだ。

しかし、どっちから帰ればよいのだろうか。もうここに住んで10年は経つが、見たこともない道である。

まあ、それでもそんなに家から離れているわけでもあるまいし、きっとこのまま歩き続けていれば知った道に出るだろう。

彼は楽天家であった。そうして、そのまま特に悩むでもなく、さっさと決めた方に歩いて行ってしまった。

彼の後ろでは、拾われなかった空き缶が慣性のままに動き、ちょうど彼がもたれていたクリーム色の塀にぶつかって、カランと音をさせた。

(*)

しかし、なんとも暗い夜道である。五歩も進めば忽ちその先は暗闇だった。生憎、携帯の電源も切れていたため、彼は闇に目が慣れるまで電灯の光の届かぬところでじっとせざるを得なかった。

暫くして目が慣れてくると、辛うじて道路を認識できるまでになった。そうして、道に沿って歩を進めていると、また一本の街灯が道を照らしているのが見えた。

その景色はどこか既視感のある気がした。街灯も横の塀も、当然地面に当たるアスファルトも、みなさっき目が覚めたところと似通っていた。

遥か昔の羊飼いや商人であればさながら元の場所に戻ったかのように感じるのだろうな、などと見分けのつきにくい現代の画一的な景観に苦笑しつつ、彼は街灯の前を通り過ぎた。

また暫く歩いていると、前方に街灯が見える。その下にはさっき見たのと同じような景色が広がっているようである。

現代の建築家はこんなにも風流でなくなったのかと酔った頭で少し憤りを感じながら、これもまた時代の流れなのかもしれないと思うとどこか寂しい気がした。

そんな感傷に浸りながら、彼はまたその一本道を味気なく進んだ。やはり生活には風流が必要である。こんな寒い夜には、なおさら殺風景な街並みがこたえた。

ふと、彼の頭にいつもはやかましい妻の顔が浮かぶ。彼は妻に謝り、ケーキを渡し、誕生日を祝う。妻は、彼の遅い帰りに文句を言いながらも、どこか嬉しそうである。そして、二人で洋画でも見ながら紅茶をいれて、ケーキを食べる。

彼はなぜか頭に浮かんだその幸せを想像のうちに期待しながら、鼻歌まじりに帰りを急いだ。もうそろそろ大通りにでも出るだろう。

しかし、そんな呑気な考えは一瞬にして消え失せてしまった。

目の前に、再び同じ景色が現れたのである。その時、突然彼の頭にある不安がよぎった。まさか、いや、そんなはずは。

彼はその不安を解明しようと、いや、むしろ搔き消そうとして、一歩一歩、歩数を数えながら進んだ。

すると50歩進んだちょうどその場所が街灯の真下であった。

不安が募る。彼は今度は歩幅を変えて、慎重に、慎重に歩を進めた。

しかし、彼がいくら歩幅を調節しようともちょうど50歩進むと、そこには街灯が一本佇んでいる。横にはクリーム色の塀が変わらずそびえながら。

彼は途端に訳もわからぬ恐怖を覚えた。これは現実なのだろうか。彼は気づくと、走り出していた。まるで目の前の出来事に背を向けるように、必死に走り続けた。

けれども、どれだけ彼が走ろうともちょうど50歩進んだところには同じ景色が広がっている。それでも、彼は逃げるように走り続けた。

いよいよ、彼の身体も限界を迎えた。もう、ももは上がる気配すら見せなくなった。

彼の不安はこの時にはもう確証に変わっていた。

間違いない。ずっと同じところを走り続けている。どれだけ、進んでも元の場所に戻っているんだ。間違いなく、ループしている。

身体はその事実を嫌というほど受け入れていたが、頭は断固として認めるのを拒否していた。

馬鹿馬鹿しい、そんなことあるはずないじゃないか。余りにも非現実的だ。きっと余りにも景色が画一的でつまらないから、同じ所を繰り返し歩いているかのように感じているだけだ。そうに違いない。

彼はとことん信じようとしなかった。そして、彼の頭は目の前の都合の悪い現実を回避しようと働いた。

何故家につかないのか。極限まで疲弊した彼にとって、その問いに対する答えは一つしかありえなかった。

そうだ、進む方向を間違えたんだ。

これは彼にとって唯一の希望であった。彼はすぐに踵を返した。それだけで、身体はすでに悲鳴を上げているほどだった。

それでも彼は、力の許す限り歩き続けた。もうとっくに限界を迎えているはずの身体は、日常の光に導かれるように、歩みを止めなかった。

歩こう。ただ、ひたすらに。日常へと回帰できるまで。

意識もないまま、しかばねのように歩き続ける彼を、街灯は規則的に照らした。

(*)

目が覚めてからもう何時間が経ったのだろうか。何十時間も経ってしまったような気もするが、もしかするとものの1時間も経っていないのかもしれない。

しかし、そんな事はもうどうでも良かった。最後の力を振り絞り、得られたものは汗にまみれたシャツと絶望だけだった。

彼は未だに無限に続く街灯に出迎えられていた。左手に握られているケーキは、クリームが溶けてしまっている。

もう、いよいよ足が動かない。空腹も限界が近い。当然だ、毎日酒ばかり飲んでろくに食事も運動もしなかったのだから。

すると、急に彼の頭に家の食卓が浮かんだ。毎日、健康をと献立を考え込んでいた妻。彼は飯を済ませたとぶっきらぼうに言って、その料理をいらないと突っぱねている。

瞬きをすると、そこはリビングだった。妻は隣に座って彼のお腹を叩いている。彼は運動しろとうるさい妻を適当にあしらい、500mlの9%缶を勢いよく喉に流し込んでいる。

また、瞬きをする。ここは......どこだ?見慣れない部屋だった。天井が白い。いつも小言ばかりで、不機嫌で、憎たらしい妻が、何か叫んでいる。彼の肌に水滴が落ち、口に流れ込む。それは、塩辛く、とても悲しい味をしていた。

どんどん、意識が遠のいてゆく。妻の顔がどんどん霞んでいく。彼は必死に手を伸ばそうとした。しかし、もうどうしても身体は動かなかった。

すまん、すまんよ。君の言うことを聞いておけばよかった。もっと君を労わればよかった。できることなら、今日君を祝ってあげたかった。

悔やむ彼を弔うように、目蓋がゆっくりと眼を覆った。

(*)

———ふと目が覚めた。何だ今のは。俺は今、命を......。生きているのか?本当に、生きているのか?いや、嘘ではない。こうして考えることができる。目も見える。冬の匂いも感じる。冷たい風が肌を刺しているのも、ありありと分かる。

確かに、確かに生きている。命が身体の中で、しっかり燃えている。

彼の頬に涙が伝った。生きているということがこんなに嬉しいことだなんて。

彼は左手を見た。そこにはしっかりケーキが握られている。しかし、箱の上の透明なプラスチックの部分をよく見てみると、妻の名前が書いてあるプレートが真っ二つに割れていた。

彼は瞬時に理解した。

そうか、お前が守ってくれたんだな。

どういうわけかは分からないが、きっとそうなのだろう。今の彼にはそうとしか思えなかった。

彼は帰ったら妻にたくさん謝ろうと思った。うんと妻を労ろうと思った。とにかく、早く妻をこの手で抱きしめたい気持ちでいっぱいになった。

早く帰ろう。日常へ。

身体は疲れているが、心は信じられないほど軽かった。妻が待っていると思えば、少しの疲れなど何でもないのだった。

そうして、彼は清々しい気持ちのまま、汗にまみれたシャツで窮屈にしめられた重い身体を持ち上げた。その時、右手が何かに当たり、カランと音がした。

500mlの9%のチューハイ缶が、空っぽになって転がっていくのが見えた。

慣性のままに進んでいくその空き缶を、たった一本の街灯が冷たく照らした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?