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「昭和財政史」より 昭和60年~の「中曽根内閣による売上税の導入失敗」を書き起こし③

「昭和財政史」より 昭和60年~の「中曽根内閣による売上税の導入失敗」を書き起こし①

「昭和財政史」より 昭和60年~の「中曽根内閣による売上税の導入失敗」を書き起こし②

の続き。これにて「中曽根内閣による売上税の導入失敗」の書き起こしは終わり(長かった)


昭和61年7月の選挙で大勝した中曽根内閣は、その後政府税制調査会及び自民党税制調査会において税制改革の議論を本格化させていく。しかし、抜本的税制改革の本丸である「大型間接税(売上税)導入」に関しては、検討段階で、すでに各所から反対論が出始めていた。

以下、昭和財政史「第3章 昭和55~63年度の税制-「増税無き財政再建」と抜本的税制改革-」より

(3)抜本的税制改革と売上税導入の失敗

昭和61年12月24日に「昭和62年度税制改正大綱」が取りまとめられて以来、大蔵省では最終的な改正内容の確定作業が進められ、昭和62年1月16日に「昭和62年度税制改正要綱」が閣議決定され、税制改正の内容が確定する。その後は、法律案の作成作業が行われることになる。

具体的な法案作成の段階では、まず中小事業者のために簡易な納税方法を用意してもらいたいという政治的な要請に応えるものとして、簡易課税制度が設けられることとなった。すなわち、年間売上高1億円以下の事業者に対しては、控除すべき仕入税額につてみなし計算の選択を認めることとし、卸売事業については売上げに対する税額の90%を、その他の一般の事業者については80%をそれぞれ控除仕入税額とみなすこととした。これは、当時の法人企業統計における付加価値率が卸売業者で6.4%、全事業者平均で16.8%であったことを基礎とするものであった。

また、非課税品目についても細目を詰める段階において微妙な問題が生じ、その割り切りが必要であるとされた。例えば、食料品非課税の原則の下で、飼料は非課税とされたが、肥料は課税とされ、漁船や冷凍トラックは非課税とされたが、冷凍倉庫は課税とされた。一般的な事柄を報道する日刊新聞は非課税とされ、それとの並びで一連の夕刊紙も非課税に分類されたが、スポーツ新聞は課税とされた。こうしたところから、課税・非課税の区分が恣意的に行われたのではないかとの印象を与え、「課税、非課税はクイズもの」という批判を生むことになったという。

このような作業は、「公平・簡素」を旨とすべき新税が「恣意的・複雑」と受け取られることになり、売上税に対するイメージをさらに悪くすることになった。当時、審議官であった尾崎護は、次のように述べたという

例外をたくさんつくった非課税騒ぎで、売上税の議論がおかしくなった。党税調のメンバーは、自民党の各部会と妥協してもやるべきだという姿勢だったが、非課税品目が拡大する中で雰囲気がかわってしまったなという印象を受けた。要するに例外を一杯つくるということは、物品税の世界にもどるということなのだから。

さて、このような法案が国会に提出されるに従って、関係者は事態を切迫したものとして受け止めるようになり、世論は大きく揺れ動いた。税制改革に賛成を表明する経済団体もあったが、世論は次第に売上税反対の方向に進んでいった。売上税反対の先鋒に立ったのは、繊維業界や流通業界などが中心であったという。

これらの業界では、取引経路や決済形態が複雑で新税への対応が困難であるということが、その主張であった。また、繊維業界などでは競争が激しいため税額の円滑な転嫁が難しく、事業者負担になるおそれがあると主張した。また、各業界に共通するムードとしては、新税の骨格が固まったのが、昭和61年12月に入ってからなのに、年内にはすべて決まってしまい、内容の詰めまでの期間が1カ月足らずで、説明を受けたり要望を提出したりする余裕が十分ではなかったとする不満が根強く感じられた。

これらの反対に対し、政府・与党を挙げての積極的な広報活動が行われたが、反対の世論はおさまらず、内閣の支持率は低下の一途をたどることとなった。61年中にはほぼ50%に近い支持率がみられたのが、62年1月及び2月には30%台に下がり、3月には20%の支持率に低下したとの世論調査もみられた。また3月8日に岩手県で行われた補欠選挙あるいは4月12日に行われた都道府県知事、県会議員及び政令指定都市の議員の選挙などでは、自民党が大きく後退することになった。

このような政治的状況において、結局売上税法案は1回の審議も行われないまま廃案となってしまうのであるが、その最大の原因は、やはり国民の信任が得られなかったということにあるように思われる。急ぎ過ぎ、説明不足、非課税騒ぎといった手続き上の問題を挙げることもできるが、最大の問題は中曽根総理が「大型間接税と称するものはやらない」と公約したにもかかわらず、その公約を破って売上税を導入しようとしたと国民が感じたことにあるといってよいように思われる。

さて、売上税法案は審議が行われないまま廃案となってしまうという政治過程は、それ自身大変興味深いものであるが、本書の守備範囲を超えるものであり、詳しくは他の著書に譲ることとして、ここでは、後の議論に必要となることに絞って、整理しておこう。

まず、売上税を含む法案が昭和62年2月4日に国会に提出されて以来、野党の反発は予想以上に強く、国会では事実上の空転状況が続いたが、いわゆる日切れ法案の取扱いと新年度の予算執行が問題となり、3月27日に「租税特別措置法の一部を改正する法律」が成立し、3月31日には昭和62年度暫定予算が成立した。

しかし、本予算の成立の見通しは立っておらず、その一方で、62年2月下旬のルーブル合意に基づいて、貿易黒字の削減、ドル安・円高是正のための内需拡大策を要請する外圧が高まり、4月下旬の中曽根首相の訪米などの予定も考慮すれば、4月下旬には絶対に予算が衆議院を通過している必要があるという認識が生まれた。

そこで、4月13日に8者会談と呼ばれる政府・与党の幹部の話合いがもたれ、(1)予算の早期成立を期する、(2)暫定予算の補正は行わない、(3)予算の修正は行わない、(4)売上税の撤回は考えない、といった点を内容とする決定が行われた。そして、4月14日に予算委員会が再開され、15日には与党の単独採決によって62年度予算が衆議院予算委員会で可決されたが、本会議の目途は立たず、さらに単独採決によって野党は完全に硬化し、その後の見通しが立たなかった。このような事態収拾のために、与野党間での折衝が始められたが難航した。

このような異常事態を打開するために、4月23日、原健三郎衆議院議長による調停案が与野党の責任者に文章で示された。その際、野党側が売上税関連法案について、各党の合意が得られない場合の扱いを質問したのに対し、原健三郎議長は「合意をするように最大限の努力をすべきだ」と答えたが、各党の話が不調のときは、審議未了として廃案になることを明確にし、共産党を除く各党は受け入れることになった。その議長提案及び議長発言要旨案は以下のような形で残されている。

売上税関連法案の取扱いについては、現在の段階で各党の意見が一致していないので議長がこれを預かる。しかし、
1.税制改革問題は、今後の高齢化社会に対応する等、将米のわが国の財政事情を展望する時、現在における最重要課題の一つであることは、いうをまたない。従って、直間比率の見直し等、今後できるだけ早期にこれを実現できるよう各党協調し、最大限の努力をはらうこと。
2.このため62年度予算の本院通過を待って直ちに、本院に税制改革に関する協議会を設置し、税制改正について検討を行うこと。なお、その組織、運営については、各党において速やかに協議すること。
3.売上税関連法案の取扱いについては、協議機関の結論をまって処理する。今国会中に結論が得られない場合においては、その取扱いは各党の合意にもとづいて措置するよう一層の努力をすること。
Q各党の合意ができないときは、どうするか。
Aその時は、まず合意を得るよう最大限の努力をすることは勿論であるが、どうしても不調のときは通常は審議未了か継続ということだ。だがこの場合は審議未了になる。
Q審議未了ということは一般的にいえば廃案ということですね。
Aその通り今国会廃案ということだよ。なお、ニ項目の協議機関の設置は、必ずやってくれよ。
野党 承知しました。

これを受けて、衆議院予算委員会が再開され、昭和62年度予算は、昭和62年4月23日夜遅く衆議院本会議で可決されることとなった。この後、「税制改革に関する協議機関」の設置について非公式な話合いが始まるが、その最終的な形が定まったのは、参議院で昭和62年度予算が可決成立した5月20日の翌日のことであった。

その構成は、自民7名、社会、公明、民社2名とし、運営等については協議機関で協議して行うことになり、5月25日に第1回会合が開催され、自民党の伊東正義政調会長が座長に選出された。その後、実質的な議論が再開されるが、5月27日,通常国会は閉会し、売上税関連法案の廃案が確定した。

税制改革協議会は、昭和62年7月24日までに12回開催されたが、議論の中心は昭和62年度の所得税減税の規模と財源問題であった。まず、6月12日の第5回会合で、自民党から次のような提案が行われた。

(1)抜本改正案の中の所得税減税について、恒久財源を確保しつつ、総額2兆7000億円程度の減税を行う。

(2)昭和62年度における財源措置については、別途、政府において検討させるが、恒久減税分については、利子非課税制度の改組等により確保する。

これに対して、6月26日の第7回会合において、野党側から「税制改革協議に関する提言」が提示された。その主な主張は以下のとおりである。

(1)昭和62年度においては所得税、住民税を合わせて2兆円規模の減税を行う。

(2)マル優の廃止等については売上税法案とともに廃案となったものであるから、旧政府案を前提とした議論は認められない。

(3)減税の恒久財源は不公平税制の是正に求めるべきである。

こうして、与党、野党の主張は明らかにされ、一致する点、議論してもなかなか合意が得られない点が明らかにされてきた。昭和62年7月24日の第12回会合においては、5月25日の協議会発足に際し、議長から2ヶ月後に報告を求められていることもあり、5月25日の座長報告を行うことが提案された。

野党側からはマル優廃止問題等大きな問題についてまだ合意形成が進んでいないことを理由に反対の意向が示されたが、上記の事情もかんがみ、座長の責任において中間経過報告として議長に対し報告が行われた。

このような作業と平行して、政府は臨時国会に関連法案を提出する作業に入っていた。税制改革案の骨格は、7月29日の政府自民党8者会談によって決定され、(1)所得税については昭和62年度において行うべき減税だけを規定する、(2)利子所得課税の改正を行う、(3)法人税については一切ふれず法案を提出しない、という内容であった。

そこではマル優の原則廃止が織り込まれており、野党は強く反発し、政府が法案を閣議決定した時点で、国会審議を全面的にストップさせる方針を決めた。7月31日、政府は、所得税減税と非課税貯蓄制度の原則廃止を主たる内容とする税制改革に関連する4法案を閣議決定し、国会に提出した。

国会では、与野党の激しい対立があったが、先の売上税法案にみられたような国民の大きな反発はなく、自民党側からの減税額の上積み、マル優廃止の実施時期の繰下げ等の譲歩案の提示もあり、最終的には、昭和62年9月19日の、参議院本会議で可決・成立した。

こうして、所得税減税と利子課税の見直しという税制の抜本改革の一部が62年中に決着し、残るは法人税引下げと新しいタイプの間接税の問題となった。

(4)売上税導入失敗後の動き

法案の成立に伴い、税制改革の議論が一段落した後、残された課題を今後どのように処理していくかについての戦略が政府・与党の中で練られた。特に、昭和62年10月下旬には、中曽根自民党総裁の任期が満了することとなっており、11月初旬には新総裁が決定し、新政権が発足する。そのような政治日程の中で、税制改革の芽をつぶさないようにするための一種の「引継書」が用意されることとなった。

そこで、9月の半ば頃からそのための基本的な考え方と具体的な手法についての検討が始められた。その中で問題となったことの1つは、税制改革作業を進める上で、63年明けに始まる次期通常国会とどのように関連づけるかという点であった。

それまでの経緯を踏まえると、新政権の下での通常国会にこの問題を持ち出すことは政情を不安定にし、かえって混乱するのではないかという懸念があった。その一方で次期通常国会で何らかの足掛かりを得ておかないことには改革の機運が消滅してしまう恐れもあった。そこで「引継書」の中では、直間比率を見直していかなければならないという問題については明確に付言する一方で、次期国会で足掛かりを得ておくといったタイミングの問題については正面から取り上げることはせずに、「早急に成案を得その速やかな実現を期する」という表現でもってニュアンスを明らかにすることとされた。

このような経過を踏まえて取りまとめられたのが、昭和62年10月16日に政府·与党首脳会議において決定された「税制の抜本的改革に関する方針」である。

いうまでもなく、売上税導入の失敗は、そのために心血を注いできた大蔵省ことっても大きなショックであった。しかし、新税導入に関して悲観的な雰囲気がただよう大蔵省内部において、水野勝主税局長とともに広報活動を行っていた審議官の尾崎護は別の見方をしていたという。

その点について、前出のジャーナリスト岸宣仁は次のように書いている。なぜ、売上税が廃案となった翌年に再び「消費税」の導入が試みられ、法案が通ることになったのかが少しみえてくるようなエピソードなので引用しておきたい。

こうした水野の悲観的な考え方に対し、別の見方をしていたのは審議官の尾崎護だった。主税一本やりで来た水野は、大平内閣の54年国会決議から売上税までの長い道のりに気が滅入るような思いだったが、尾崎は、違った。
「廃案になった後でいろいろな人に会っている時、一つ感じたことがあった。マスコミ、民間人、政治家の多くが、売上税を廃案にして“しまった”という感じを見せたのだ。廃案にしてしまって本当にこれでよかったのかという、一種の後悔のような感じが残っていた」

尾崎は、これを「気持ちが残った」という言い回しで表現した。

「大型間接税に関しては、日本国民は気持ちが残った。大丈夫だ。もう一度やってみよう」

その尾崎護は、「売上税独り語り」というエッセーを昭和62年9月号から3回連続で大蔵省の広報誌『ファイナンス』に書き、売上税失敗の原因を分析した上で、やはり直間比率の見直しが必要であるということをわかりやすく語った。そして、その連載とほぼ同時進行で、「現在の間接税制度がいかに問題を含んでいるかということをもう一回サーベイしてみよう」ということで、税制2課長の薄井信明が『間接税の現状』と題される冊子をファイナンス別冊として出版している。

尾崎護はさらに、どうしたらこの問題を世の中にわかってもらえるかと考え、中曽根首相のブレインといわれた浅利慶太に会いに行く。

そのためにいろいろ考えまして、中曽根内閣当時に、中曽根さんのブレインだといわれた浅利慶太(劇団四季)さん、その浅利さんが中曽根さんの政策のいろいろなPRを担当しているということを聞いたものですから、私は全然、浅利さんは存じあげなかったんですけれども、訪ねて行きまして、実は世の中にこの問題をわかってもらうには、一体どうしたらいいんだろうかということを相談したんですね。
そのときの浅利さんの言葉が忘れられないのは、「あなたは世の中に話をしていくのは、相手が漠然として広過ぎて、どうにもならないと思って、そんとなことを言っているのかもしれないけれども、そこからまず違っているんだ」と彼は言ったたわけですね。よく新聞とかテレビとかを見てごらんと。財政問題についての日本のオピニオンリーダー、この問題について発言をしていて、しかも世の中に影響力を持っている人というのは、せいぜい20人だよと。この20人ぐらいの人をわからせれば、世の中全体がわかるんだと。こう浅利さんが言ったんですね。これはほんとうにありがたい助言であったと私は思っています。
そういう人たち、いわゆるオピニオンリーダーたちに直接当たるということ。それから、マスコミ。マスコミも新聞とか論説委員だけではなくて、それこそ雑誌、月刊誌から週刊誌に至るまで、広くいろいろな方に説明していく機会をつくるということ。ところが、そういう世界を全然知らないものですから、その紹介役も浅利さんが買って出てくれまして、随分あちらこちらにルートをつけてくれました。

その後、大蔵省では、消費税の導入・実施において、大手広告代理店の力も借りながら、かつてみられなかったような広報活動を展開していく。それは国民の税制についての理解を広く得るためにマスメディアを戦略的に活用するということの重要性に気付いた尾崎護らの前向きの活動であったのだろう……

書き起こしここまで

この後、昭和62年10月に竹下登が自民党新総裁に選ばれ、「消費税」の導入検討が始まることになるが、それはまた後日。

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