ルールを作る教育とルールに従う教育

気づけばイギリスに住み始めて7年の歳月が流れました。

最初は主人の仕事について、期間限定のつもりで、ワクワクしながらやってきました。6年ほど前に1年間イギリスで暮らしたことがあったので、全くのゼロからという感じではなかったですが、子どもも成長したり数が増えたりしていたし、初めて経験することの連続でした。

日本に帰って中学受験をするはずだった長男が現地校に行きたいと言い出し(てくれ)たために、イギリスの教育が日本のそれと違うことを目の当たりにし、できるだけ長くイギリスの教育を受けさせたいと思ってしまい、留学ビザに切り替えて今までイギリスに住まわせてもらっています。

ルールを作る教育と、ルールに従う教育。どちらも学ぶべきことであり、どちらが良い悪いということではないと思いますが、ルールに従う事が至上命題になってしまうと、ルールが必ずしも公平とは言いにくいような場合におかしなことになると感じていました。

何より、日本では英語ができると自惚れていた自分が、全然英語を話せないことに驚愕し、その原因を突き詰めていくと「教育」だな、と感じたのです。もちろん私が話せない一番の原因は努力不足ですが、なぜ日本では英語ができる「ことになってしまう」のか、を考えると、教育(学校教育に限りません。親や環境から受ける全ての影響を含みます。)を抜きには語れないと思いました。

日本には、かなり細部まで詳細に規定された「理想の」大人像があると感じています。そして非常に多くの日本人の大人(に私には見えます)が、それを自分にとっても理想だと思い、自分の子どもにとっても理想だと思っているので、その理想像に近づける教育を子ども達に施していっているように見えます。

私自身、その「理想」像に近づこうと必死に若い時代を生きていたなと思います。いつも試され、評価されることに慣れ、評価されたいので評価する側の意を汲むような思考になり、その意に沿うように自分を合わせていく、の繰り返し。短時間で長い英文は読めるけど、全然喋れない、「キチンとした」英語しか聞き取れない私の出来上がりです。今はリスニングが必須だったり、記述の問題が増えていたりするのかもしれず、私が試されていた英語力よりは、実際に使える英語力に近くなっているとは思います。「理想像」を形作る一部分を修正しなければ、ということになれば、自ずと試す形式も変わっていくでしょうから、それは好ましい傾向だと思います。

ただ、そもそも多くの日本人が掲げる「理想像」は、全ての日本人にとっての理想像ではあり得ないのではないか、少なくともその理想像のようになりたいとは思っていない子どもにその価値観を押し付けるべきではないのではないか、という根っこの部分を考え直しても良い気がするのですよね。

そんなことを考えて、子ども達にも「教科書のない」勉強をしてほしいから、と言って納得してもらい、あなたは何をどう考えるの?ということを考えさせてくれる教育に守られながら緩く暮らしていました。

が、1年前くらいからコロナ騒動で、しょっちゅうロックダウンだの、何とかルール(屋内/屋外では何人と会っていいとか、テニスはいいけどバスケはダメとか)が出されて、学校も閉まってオンラインになったり、という不思議な日常が目の前に現れるようになりました。総死者数が前年比減になっている程度の、致死率が高いとは言えないウイルス対策のために、過剰に人の権利を制限しすぎて、明らかにバランスを失しているように見えていたところに、今では知的障害や精神疾患のある方がワクチンの「優先」接種の対象なのだそうで(日英とも)。この騒動を眺めているうちに、イギリスに頑張っている必要ってあるのかな、という気持ちが私の中で強まっていきました。

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