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【哲学的考察】誰でもない「ひと」たち#1

俺のことなんて、何も分からないくせに

 弟にそう言われた言葉が、私の中に引っかかっている。彼は家族の一員であり、私は彼を弟だと思っている。しかし、私は「彼」のことが、ほんとうに「わからない」。私は理解しようとしているが、そのことは「彼」の中の歪んだ自己意識をさらに歪ませる様な種類のものらしいのだ。「分かろうとするな!」と彼は僕や僕の両親に言う。「分かってほしい、でも分かるはずがない。だって気づかないんだから」。

 一体、彼が言っているのはどういう意味なのか?

<他者>の言明

 「私たちは無視され、抑圧されてきた!」「自分は被害者だ!」という発言自体がある種のとげとげしい感じみたいなものを含んでいるのは、結局のところ、それが見えない加害者に対する反逆の意志の表明に外ならないからだ。自分が抑圧されていたこと、世界から隠されていたこと、世界から無視され、踏みにじられ、傷つけられていたこと……世界はいま、この種の被害者たちを救済しようとしている。僕からすれば、いじめのカミングアウトと、最近のフェミニズム運動だとか、フランス現代思想だとか、マルクス主義というのは、何も本質は変わらない。勧善懲悪の構造は、この言説においては、善悪は完全にイデオロギー的な物である。

 けれどもそうやって「弱者」「被害者」が声を上げ、それに世間が同調する時に、僕は一つの不安を感じる。それは、「加害者」への「同情」ではない。むしろ、被害者と加害者という二つの区分の間からすっぽりと抜け落ちて、二項対立に回収されないまま、弁証法の網の目から深淵へと落ちていく「彼ら’」の存在への不安である。

誰でもない「彼ら’」

 行間に生きている彼らのことを、僕は非存在として扱うことも、存在の片側に加えることもできない。なぜなら、「彼ら’」は我々が通常使う意味での「彼ら」ではないのだ。私が何かを言葉で記述するとき、常にそこからはみ出ていく「彼ら’」である。

 私見によれば、ハイデガーが『存在と時間』で語ろうとした「世間das Mann」論が見落としていたのは、この種の存在者だ。彼らは確かに存在する。だが、「彼ら’」はイデオロギー的な存在論の領野に、その存在根拠を据えることができない。彼らは自身を何者としても定義不可能である。彼らは彼ら自身のアイデンティティを持つことをしないばかりか、出来ないのである。

 それは、この「彼ら’」が、不可避的・構造的に永続する孤立に囚われていることに由来する。「永続する孤立」とは、いかなる言説からも逃れ続ける<他者>であるという形で表象するような孤立のことであると同時に、全体記述言明(例:「諸君」「同士」「世間の人々」「みなさん」)においてはその全体性の中で感じられる絶対的孤立として、すなわち厳密にハイデガー的な意味で「自己das Selbst」として事実的に孤立していることである。

 注意せねばならないのは、私がここで述べたことが、「彼ら’」が「自己」を持たない、という意味で述べられたことではないことである。「彼ら’」は厳密に外ー記述的、構造的な<他者>である。いかなる記述でもって彼らを積極的に記述することはできない。「彼ら’」はその都度事実的な「自己」であるが、「自己」を持っているわけではない。

 この一連の私の記述もまた「彼ら’」を外側へ押しやる種類の記述である。しかし「彼ら’」は「私たち」の一部なのである。彼らは私たちが記述する全体記述言明における問題構造において(例:「地球温暖化は”私たちの”問題である」「資本主義は”我々を”脅かす」「”私たち”は性被害者たちを無視してきた」)という際に、これらの”私たち”に含まれてしまう一方で、しかしそこに属していると同時に孤立せざるを得ない「彼ら’」という形で、この言明の<他者>になる。

続きます。


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