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「現代」の定義

千葉雅也氏の『現代思想入門』を読んだ。

とても良い本だったし、哲学の初学者である僕にとっては、知ったかぶりをしていたフランス現代思想、特に構造主義からポスト・構造主義、ポスト・モダン=脱構築の思想に関する知見を得ることができた。ちなみに、本書の内容を読んだ中で筆者に共感できたのは、『脱構築』とか『エクリチュール』とかかっこいい言葉を使ってみたいという動機の部分である。

もっとちゃんと読めと言う言葉が聞こえてきそうだが、それはいい。何せ新刊としての情報が出てから2週間ほどが既に経過しており、先日本屋へ行った折に、山野弘樹『独学の思考法』と共に購入した物であるため、流行に乗るためにも早く読んでみたかったのである。内容としては、3名のポスト・モダンの思想かを取り上げながら、ポスト・モダンの議論の方法。彼らが使う現代思想のレトリック、それらをどう読むのかという手法にまで焦点が当てられていた。なるほど、僕がフランスの思想家の文章を読むときに感じる頭痛の原因はこれか…とハッとした気分にもなった。

それはそうと、僕が気になった、というより、この本を読んでいて思ったことがある。作者も自虐的に、現代思想を打破してくれる人がいないか、というようなことを話しているが、本書は『現代思想』の本である。ここで言う『現代』とは一体どの時代であるか、という疑問。

現代って、お前それ30年くらい前じゃねえか!

本書で取り扱われている三名の哲学者、ドゥルーズ、デリダ、そしてフーコー。この3名はいずれもポスト・モダンの著名な思想家であるが、彼らが生きていた時代、そして有名な彼らの主著が出た時代を列挙してみよう。

デリダ:『エクリチュールと差異』『声と現象』1967年
ドゥルーズ:『差異と反復』1968年
フーコー:『性の歴史Ⅰ』1986年

参考:千葉雅也『現代思想入門』

うーーーーーーーーん、どれも僕が生まれていない時代の物だ。僕が生まれたのは2001年であるから、一番直近であるフーコーの著作にしても、僕が生まれる15年前である。15年は、確かに大人からすれば短いかもしれないが、僕にとっては人生の四分の三を占める長い時間だ。人間、長く生きれば生きるほど時間の経過が早く感じられるというが、まだ20年ぽっちの人生しか生きていない僕にとっては、やっと2本足で立ったくらいから、哲学をやりたいという信念を持つにいたるまでの壮大な道のりと同じ時間である。

僕の人生は置いておいて、とにもかくにも、『現代思想』と呼ばれる物自体が、既に僕にとっては古臭いと感じられるのである。無論、僕は古典を馬鹿にするわけではない。堀元見氏が『ビジネス書100冊読む』という企画の中で取り上げていたホリエモンの『他動力』にも「10冊のビジネス書よりも1冊の骨太教養本」とあった。(どの口が言うのか、というツッコミの役は堀元氏に任せておこう)。だが、古典はどこかで乗り越えられるものである。本書の中でも、千葉氏が「フランス現代思想を延命させるため」の虚しい努力であるというようなことを言っている。

僕自身、少なくともこうしたいわゆる「現代思想」は、そろそろ終焉を迎えてもおかしくないような気はしている。マルクス・ガブリエルのような『新○○主義』というような物を掲げる人も増えているし、そういった思想の芽吹きは確かに時代の端緒に感じられるものである。では、ここでいう現代って、一体何なのだろうか。

現代はいつからいつまで?それともずっと現代?

僕は一応高校で世界史を勉強していたが、一般に歴史区分は古代、中世、近代、現代という4つの区分を使うのがメジャーである。ここでいう現代は、第二次世界大戦の終戦から、今まさにこの時代に至るまでの期間を言うのだが、ここで面白い指摘をすることが可能だ。それは「近代」という言葉に当てられている英語が「modern」、つまりモダン、ということである。そう、ポスト・モダンはモダンの後、ということだが、ポスト・モダンとして現代を定義しているのである。それまでの時代は、(議論の余地はあるものの)いくつかの歴史的時代で区分をしているが、現代については、近代の後、と定義されているのだ。そりゃそう、と言えばそれまでだが、ここには重要な示唆がある。ポール・リクールもいうように、歴史は常に現に「あり」しかしどうじ「あった」=「ない」という変化を伴う。歴史の在り方は、常に生成し退席するような在り方である。それゆえに、歴史に終焉はあり得ない(ただしいわゆる『歴史の終焉』という哲学的専門用語とは、ここでは別の意味である)。

となるのであれば、僕らはいつまでも「ポスト・モダン」に生きることになるのだろうか。それとも、ここから先は「ポスト・『ポスト・モダン』」にでもなるのだろうか。実際先日そういうようなタイトルの記事か書籍を目撃して、思わず笑ってしまったのだが、要はそう言うことである。ということはこれから500年くらい先を生きる思想家は「ポスト・『ポスト・〈ポスト(ポスト・モダン)〉』」となるのか。率直に言おう。僕は嫌だ。

ポスト・モダンという用語自体が、既にモダンの思想、つまり近代の思想:理性至上主義、人間(白人)至上主義への反省からもたらされたものであることは、自明である。だが、差異の徹底が行われた地平に、新しい物が存在する余地はあるのか。結局それはポスト・モダンの延命に過ぎないのではないだろうか。僕は嫌である。ずっと現代に生きるのは嫌だ。いや、この時代を表す表記として「現代」が使われるのは別に良い。それは用語の正当な使用であって、使用によって意味づけが行われているのだからそれでよいのだが、ただ、我々はいつまでもそうした反省の中に生きているだけではいけない。

「差異」という点に着目し、それを徹底することで脱構築を目指した彼らの思想は、実際に我々の現代の思想に多大な影響を与えている。だが、新時代の哲学が、新しい哲学が、いつまでもその後を追いかけ続けるだけでは、やはりいけない。進展を失ってしまえば、それは人間、ひいては「歴史の終焉」ならぬ「思想の終焉」となるだろう。

非現代的な、あまりに非現代的な

現代的思想。現代の思想。それはどこにあるのか。僕にはまだ分からない。だが少なくとも、どこかには生まれるはずだ。それは僕以外の誰かが生むかもしれないし、あるいは生まれたとしても発見されるのは後年になってからかもしれない。ただし重要なのは、ポスト・モダン的な思想をさらに超えるような、ポスト・モダンが脱近代だったのならば、脱ポスト・モダン、脱現代とでもいえるような新しい思想を見つけることだろう。そんな新しい時代の思想が、人類の発展に寄与せずとも、生まれることを切に願いたい。可能ならば、僕がそれを生み出したい。

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