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【哲学】「境界」についての考察 #2

 前回の記事はこちらからどうぞ。
 さて、今回の記事から、いよいよ本格的考察に入る。

 第一章:人間は「境界」的存在である。
 第一節:世界と境界

人間とは何か。この問いは、哲学の根本的な問いの一つとして、古来から考えられてきたものであろう。とくに有名な言葉として、パスカルの「人間は考える葦である」などが存在する。もっと古くを言えば、アリストテレスが「人間は社会的動物である」という言葉を残したというのも有名だ。

 もちろん、人間をどう定義するかについては、非常に難しい議論である。なのでこのシリーズではそこは触れない。今回私が主張したいのは、まさにタイトルに示したことである。

「境界」的存在としての人間とはどういうことか。ここで、歴史をさかのぼって考えてみる。古く、猿人は、いまだ「人間」というには、まだ足りないような気がする。彼らはいわば「ムレ」で行動し、協力して狩りを行う一種の動物に過ぎないように思われるからだ。
では「人間」はどこから生まれたか?僕はこれを「言葉」または「言語」の出現と定義したい。

「言葉・言語の出現」=「人間」の誕生

言葉遊びかもしれないが、「人間」という言葉を考える。日本語では「人」の「間」と書いて「にんげん」と呼ぶ。僕は、この単語が「境界」的存在としての人間を定義しているように思う。例を挙げよう。

群れで狩りをする動物はたくさんいる。ライオンやチーターなどの肉食動物はその好例である。ハイエナなどになれば、キリンやゾウなどの大型動物を仕留めるために、驚くべき連携をとることも知られている。昆虫でいえば、アリなども、巣のメンバー全員で協力してひとつの「巣」を守るという意味で、「社会的昆虫」などと言われることもある。
しかし、彼らは決して自由意思に基づいて行動しているわけではない。自然科学の研究により、その統率の多くはフェロモンなどの化学物質と、簡易的な意思伝達手段(例えば、表情などを用いた威嚇など)により、自身が過酷な自然環境で生存するために行動しているということは、すでに明らかにされている。

僕は決して動物に感情などがないという意味のことを言いたいのではなく、あくまで動物の作り上げる「社会」と人間が作り上げる「社会」の違いを示したいということである。

さて、本題に戻ろう。人類、いや、「人間」はどうであろう。確かに、太古の人類は、道具を使うことを除けば、ほとんど動物的であった。狩猟採集においても、彼らはあくまで、一つの家族的集団で行動する「群れ」に過ぎず、その目的は「生きる」ことそのものであった。

しかし、ここで「言語・言葉」が出現する。簡易的な表情と咆哮などの発声に複雑なルールが現れ(このシリーズの考察において、僕は言語の自然発生説を前提とするということである)、より膨大なことがらを、単一のものすなわち言語を用いて処理できるようになった。

そして何より重要なのは、言語の出現が、すなわち「世界」の出現であるということである。言葉が存在するということは、それが定義するもの、されるものが必然的に表れなくてはならない。自然環境の中を生きていた人類が、言語の獲得によって「世界」に生きる存在になったのである。

「世界」の出現は、そして何より世界を包み込む「境界」の出現を意味する。「我々は動物や自然現象とは違う」などの相違点から導き出される受動的な定義だけではなく、「我々は人間である」という能動的定義が可能になった。
「人間も世界の一部に過ぎない」という思想も、「我々=人間」という前提が成立しなければ、出現しない。文化や思想に差異はあれど、我々という存在の根底を成立させる言語の「境界」とでもいうべきものの影響は、無視するわけにはいかないだろう。

世界における「境界」の出現は、世界をより細分化されたとして定義することを可能にする。すべてのものに名前が与えられ、世界の一部として認識される。それらは、名前という「境界」によって区分され、分別され、利用される。当然、これは人間同士においても発生する。
言語の出現と農耕の発達について関連性があるかどうかはさておき、富めるものとそうでないものが、名前という「境界」によって区別される社会が、ここに成立するのである。いや、社会がすでに「社会」という言葉自身によって成立したひとつの「世界」といってもよい。そして、僕や読者諸君は、それぞれが生まれたときに、世界の一部として存在することの称号である「名前」を手に入れる。

ちなみに「Identity」の語源は古典ラテン語の「idem」=同一人、同様のものにある。その後、後期ラテン語の「Identitas」を経て、フランス語の「identite」から英語になった古い言葉である。同様のもの、同質のものを定義づけるのは、それが外界から独立している「境界」である。つまり、人間の場合では名前が「境界」にあたるのである。

そこで、「人間」という言葉を考えてみる。「人の間」と書く言葉であるが、「じんかん」と読めば世間のことを指す。群れで行動した古代から、言語によるを手に入れた我々は、一人一人の間に、文字通り「間」=「名前」=「境界」を持ち始めたのである。これこそが、人間の出現である。

人間は、決して人類だけを指すのではない。言語という「境界」による区分を持った「世界」を、主体的包括性をもって示したのがこの言葉である。だからこそ、僕は人類と人間を区別してこの言葉を用いたい。そして、ここから先の「境界」の考察において、人間は実に重要な働きを持つのである。

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