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祖父の自伝(21)〜農業丸出航

私の祖父
ぶどう狩りのマルタ園初代園主、
中根武雄が生前書き残した自伝です。

時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ
自分のルーツに思いをめぐらして見たいと思います。

農業丸出航


昭和の初期と言えば、今では到底考えられないような農村恐慌時代で、農家にとって苦しい日々であったことを聞かされ子供心に覚えている。

その後支那事変が一つの導火線となり、最後は大東亜戦争へと化し、遂には見るもあわれに主要都市はほとんど焼け果ててのち、無条件降伏終戦と歴史は塗り替えられて行った。

国民皆兵軍事産業えと徴用され農業は婦人老人の片手間扱いで、食料不足はだんだんと厳しさを増し学校の運動場まで甘薯(さつまいも)を栽培するようになった。衣料食料全てのものが配給制度になり最低の支給である。

食べれる物なら飛ぶ様に売れて行く。食べるものを持って行けば、必要物資の交換で安易に求める事が出来た。

それは裏通りの話しで、統制の眼は何時も光っていた。生産する肥料も全部が配給で自由は許されず、栽培は困難で自給肥料に頼るしかない。

収穫した米麦甘薯等主要産物は、供出の二字に追われ休む暇もない考えたこともない。甘薯の茎まで供出の割り当てが来た。

苦は楽の種。
これらを克服し真剣に努力しない限り、自分の保有米を削って供出の完納せざるを得なかった。

第二の人生をその農業に賭ける覚悟で、今まで教わったおふくろの教訓を生かし舵を握りしめ「農業丸」に家族を乗せ出発する。

以来終戦から古希になるまで四十有余年、農業と言う名の元で働き続けた色々な出来事を体験したことを思い出して綴ってみよう。

農業丸出航

もくじ

第四部 農業

一、米作りの一歩
二、篤農家福井先生を訪ねる
三、米の多収穫に挑む
四、供出米割り当て会議
五、農林省米穀生産調査員

つづく

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