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祖父の自伝(13)〜祖父の思いが今繋ぐもの

私の祖父、
ぶどう狩りのマルタ園初代園主 
中根武雄が生前書き残した自伝です。

時代の転換期である今。
改めて読み、時代のルーツ
自分のルーツに思いをめぐらして
見たいと思います。

第三部 軍隊生活と青年学校


その七
班長代理と近藤一等兵


豊橋高師ヶ原にて演習中の、
昭和16年9月9日現役兵満期除隊
予備役に編入。

9月10日命陸軍砲兵伍長。
同日臨時招集により、野砲兵第三連隊補充隊に応召。
同日第二中隊に編入の命令が出たと准尉殿より連絡があり肩章が届く。

演習も終わり屯営に帰ると第五班長浅端軍曹の班付となり個室に入る。  
 あいなくして浅端軍曹は、
乙種幹部候補生であったが
甲種幹部候補生に編入となり
見習い士官として転属になった。

後は俺一人。
班長の代理を務める班長室の最初の当番兵は、静岡県藤枝国鉄駅に勤めていた補充兵の近藤一等兵であった。
 先にも述べたように班長は特別、
古兵は大盛り、初年兵は小盛り、
今でも変わっていない。
俺も初年兵の頃は腹が減ってたまらなかった。
背に腹は変えられない。
班長や渡辺の残飯により空腹を
凌(しの)いできた事を思い出す。

「近藤腹がへるか」と聞く
「ハイへります」
「よし明日から班長は食が良いと言って大盛りにしてこい」と言う。
大盛りの分は別食器に分け
満腹させてやった。
そんな所を古兵に見られたら一大事首が飛んでしまう。
これも可哀想だ、食べさせるにも
骨が折れる。
 かくしたりかくれたり又特別な時は押入れの中でも食べさせてやった
事もある。
腹が減っては戦は出来ん。
有難い。
もったいないと喜んでくれた。

毎日を俺のために真面目に真剣に
よく尽くしてくれた。
俺が当番をしていたときとは
雲泥の差である。
ほんとうによく尽くしてくれ
うれしかった。

そんな事は書いて笑われるかもしれないがある朝
「班長殿顔を洗ってください」
洗面器を差し出す。
「馬鹿下におろせ」
と言ったがおろさない。
尽くしてくれる気持ちは
よくわかるが
「それ程の馬鹿殿ではないぞ」
と言った。

外の当番にも聞いたらしいが
そんな班長はなかったと言う。
よそにないうれしさが、法悦の喜びとして出た心がうれしい。
古兵からもよくやると褒められ
長い間続けてくれた思い出多い一人である。

今はどうしているかなぁ
会いたいなぁ

砲兵と言うと平均体が大きい。
俺なぞ小さい方だ。
下士官の中では一番小さい。
同年兵がチビとネームを付けた。諸々からなめられるようでは
指揮掌握に影響する。
週番下士官の勤務中は、中隊を
掌握する権限があたえられる。

「よし」この時はと張り切った。
起床ラッパ10分前に不寝番に
起こさせ身仕度をして、
起床10分過ぎになると各班全部を駆け回りおくれる兵隊は怒鳴りちらし竹刀が飛ぶ程であった。
その後誰言うとなしに、週の週番下士官はチビだぞと、早く整列をしてくれるようになった。

ある朝中隊長が週番指令で、
連隊本部から朝の起床状況を
見ていたら各中隊のうち第二中隊が一番早く整列をした。
その時の週番下士官は中根伍長で
あったと点数をあげ褒められちゃった。
ちょっとやる事が「エラ」かったかな。

11月再度秋季演習に参加。
今度は指揮小隊の通信下士官として編成され参加をする。
多治見にて露営。
翌日は瑞浪陶器店に宿営。
どの家も誉(ほまれ)の家で
長男が応召、今、中支方面にと
写真を取り出す。
息子のような気がすると
もてなしも良く珍しいと
うずらの肝臓を出され、
食べすぎたか、翌日行軍中腹が鳴り馬乗ではどうしようもなく、
全く閉口した。
あの時はほんとうに困った
のだなぁ。
今でも頭の隅にこびりついている。

11月下旬京都で大動員があり
名古屋港より出航である。
師団命令で名古屋の各連隊は
それぞれ任務が命ぜられた。
野砲兵は食糧と衣料の積み込み
であった。

俺は分隊長で兵10名を引率し
現地に着く。
物々しい警戒ぶりで貨車で二重にも三重にも囲み、通路には歩兵の歩哨が立っている。
区域内の住民は全員通行手形に
写真入り、無用者一切通行禁止で
ある。
俺たちの戴く書類も全部極秘の印。
受領枚数が合わないと営窘(えいきん)だと厳しく注意される。

苦あれば楽ありの喩え。
夜は旅館泊まりである。
ひさびさふとんの上で寝る
心地のよさ膳で食べる味。
この時ばかりは娑婆に出たような気がした。
雑談にも花が咲く一週間であった。

勤務も終わり中退に帰るとまもなく大東亜戦争が始まる。

あぁそうかと一人うなづく

軍隊生活 その八
徴兵と中島二等兵につづく

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