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津久井やまゆり園 45人殺傷事件 続報

会社経営の傍ら、心理カウンセリング・コンサルタント講演・コンプライアンスに基づく講義なども行っています、りゅうこころです。ryukokoro

弁護士を解任

相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年7月、利用者ら19人が殺害され、26人が負傷した事件で、殺人罪などに問われた元同園職員、植松聖(さとし)被告(29)が自らの弁護士を解任しようとするコメントを発したと話題になっています。

その理由は「自分は精神疾患ではない、心神耗弱状態ではない。自分がやらなければならないと思ったから犯行に及んだ。それを弁護士達は心神耗弱状態で責任能力ナシと言う」というものだ。

戦時の公判で自らの指を噛み千切ろうとした行為についても「謝罪だけでは済まないと思ったのでやった」と。更に「協力者がいる」とも。

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命の重み

「あなたが死にたいと思った一日は、誰かが生きたいと願った一日」という言葉があります。人の心に携わっていると、常にこの言葉が自問自答の様に頭に巡るのです。私はよく「生きるって何ですか?何で生きなきゃいけないのですか?」と訊かれます。質問の真意には答えられません。相対にある「死」の意味を私自身知らないからです。 表層的に考える「死」は『その人の現世での終焉』だと考えています。

私はどの宗教にも属していませんので、『誰かが救ってくれる』とか『転生する』とか『浮遊霊としてカメラに写り込む』とか考えません。物理的に心肺停止・脳波測定不可を現代の医学が「死」と定義づけている以上、それが意味であって、それ以上でもそれ以下でもありません。

なので、『命の重み』と言う言葉も本来なら矛盾する考えなのでしょうが、時間と同じように万人に平等に与えられているものだと考えています。だからといって、「死だって平等じゃないか」という事にはならず、少なくとも誰かの「死」にによって波及するダメージが必ずあるので、私は全力で自殺を止めます。

今回の事件は『被告が被告の意志で正常な状態で行った』と言うのであれば、それはきっとそうなのでしょう。それ以上に「いや、そういう考え方自体が精神疾患なのだから」とは言えません。亡くなられた方々・怪我をされた方々・心に傷を負われた方々にとって、これ以上の差別はないと思うからです。

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何が、どれが普通なのか

こんな事を訊かれることもあります。「命の重さは同じでも、命の価値は違いますよね?」みなさんはどう思われますか?卑怯かもしれませんが

私は「誰がそれを決めるんだい?」と返しています。

・ 産んだ親なら子供の命を好きにしていいの?

・ 結婚したら伴侶の命を好きにしていいの?

・ 付き合ったら彼の命を好きにしていいの?

・ 付き合ったら彼女の命を好きにしていいの?

・ 健常者なら障害者の命を好きにしていいの?

じゃあ、どのレベルが健常者なの?その価値は誰が決めるの?

みんなそうです。自分が目を瞑りたい事は曖昧にしてやり過ごし、目を開けていられる事(他人事)には勝手に価値を付ける。自分が正しいという理論ありきで。

このnoteや他のブログでも「命の重さは同じでも価値が違う」と書いている人が沢山います。いいのです、表現の自由があるのだからそれに賛同するもするも良し、反論するもまた良し。でも勝手に決めつけて勝手に奪っていいものではないのです、命は。

先日の新幹線殺人でもそうです。「2人以上殺すと死刑になるから」と言っていましたね。何の権限があってそんな行動に出られるのでしょうね。まだ神様とか仏様に救いを求めて拝んでいる方がマシです。


意思の疎通ができない障害者は安楽死

犯人は公判でもこのように述べています。考えるのは自由です。このように思ったとしても、それは思想良心の自由で守られる権利なので、頭の中で治める分には私もどうこう言いません。もちろん、口に出した時点で心理士として謝った行動をしないように導く努力はします。

でも犯人は行動しているのです、しかもあんな残虐なやり方で。そしてあろうことか『ヒトラーの思想が降りてきた』と。

貴様にヒトラーの何がわかる!何を知っているというのだ!上っ面のユダヤ人虐殺歴史だけかじって、大量虐殺する部分だけ勝手に崇拝して、彼の内側にあった孤独や苦しみや最期に銃口を自身のこめかみに向けた時の詳細な気持ち「その時に微笑んだのか悔やんだのか」もちろんここまで私も知りませんが、そういう所まで知ったうえで語るならいざ知らず、何が『ヒトラーの思想が降りてきた』だ!

そう考えると弁護団が「心神喪失」を訴えているも理解できます。でもね、彼は取り返しのつかない事をしてしまったのです。そして彼の心は恐らく元には戻らない。少なくとも校正プログラムを組んだとして、僕は元に戻す自信はありません。

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疑わしきは被告人の利に

これが現司法の理念です。「疑わしきは罰せず」冤罪を生まない為の司法自身が課せられた枷です。人間感情論になってしまったら「即死刑!」ってなってしまう様な事案でも、感情論にならないように公平公正に司法手続きがなわれるように日本の制度は出来ています。

今後このような身勝手極まりない、社会的弱者に対する残虐な事件が起こらないように祈りながらこの記事を書きました。

皆さんも困っている人がいらっしゃったら恥ずかしがらずに手を差し伸べましょう。自分が出来る事は上から目線でなく積極的にやりましょう。同じ人間なのですから助け合いましょう。

りゅうこころでした ryukokoro

高い講演料を払って聞きに行かなくてもあなたの知りたい事はここにある!心理学士で経営者が語る30年分の知識と経験を文章にしてあります。もしあなたが知りたい事があったらコメントください。その案件について私が出来る限り解説します。さあ、私の40年分の知識と経験を開いて御覧なさい!きっとあなたにもいろいろなものが見えてくるはずです。



重度のうつ病を経験し、立ち直った今発信できることがあります。サポートして戴けましたら子供達の育成に使わせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。