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自然

なぜ人間は社会を拡大し続けるのか。

なぜ人間は自然を破壊し続けるのか。

また、なぜ人間は自然に心を癒されるのか。

そして、なぜ自然でしかその心は癒せないのか。

こんな風に僕はたまに人間と自然について思考を巡らせる時がある。

そしてそのたび答えは出ない。

それがなぜだか考えてみた。

本来、自然の中に人間や他の全てがいる。
しかし、今の資本主義の社会は完全に
自然と人間を分離しようとしている。
自然の中に人間が暮らしているのではなく、
人間の中に自然が成立しているのだ。
そして都市部では塗り替えられた自然、
偽の自然空間を作っている。
もちろんそれが悪いわけではない。
そしてその自然と人間社会の境界線も驚くほど曖昧である。大都市と田舎を見比べないと分からないほどに。

では
なぜ自然と社会は切り離されるのだろうか。
おそらく原始時代の
自然の中で暮らしていた時代のように戻ると、
人間は自然に淘汰され
生きていけなくなるからだろう。

だが果たして
自然を必要以上に切り取った、
大都市の人間社会の中で人々の心は
本当の意味で満たされるのだろうか。
満たされるとしたら

なぜ人々は自然の中に言語化できない
本能的な何かを求めるのだろうか。

同時に、
なぜ自然の中にいると
唐突に孤独感や恐怖心に襲われるのか。

僕が感じたことは

人間社会は人間の考えた原理や法則のもとで
成り立っている。
それに比べ自然は人間の思考を超越した未知の世界である。

そのため、人間は自然に本能レベルで感情を如何様にも突き動かされるのだと思う。
もしかすると完全に自然の中に生きるとき、
人間は初めて生を意識するのかもしれない。
人間社会では生死を意識する瞬間は
そう多くない。
また人間を超越した大きな存在を意識することも少ない。
そういった無知の知のような面で自然は多くのことを私たちに感じさせてくれるのではないだろうか。

本来のあり方は
「自然の一部として人間が存在する」

という構図であって、このパラダイムが崩れるほど自然が損なわれたとき、人間が自分の生を保つことができなくなるような反動が、自然の側からもたらされるような気がする。

温暖化やそれがもたらす気候変動は最たる例だが、それ以外にも、確実に見えないところである種の"反動の蓄積"が進んでいるような気がしてならない。今回のコロナウイルスのように。

そんな中、一人の人間として自然との共生関係をどう築いていくか。

「人類」を主語にして、資本主義に抗い、自然を増やしたり保全しようとしたりするのも一つ。

「会社組織」を主語にして、社会的責任を果たすことで、資本主義の流れに自然を飲み込もうとする動きを抑制しようとするあり方も一つ。

「自分という人間」を主語にして、自らの生活のバランスを取るために生活の中に自然を取り入れていくのも一つ。

色々な自然との向き合い方がある中で、自分自身はどんな向き合い方を選びたいだろう。



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