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「眺め」について歌詠みが思うこと

 初めにお伝えしておくと、これは学問ではない。王朝和歌に惹かれるひとりの歌詠みが日本語を眺めることでなされた、随想に過ぎない。

 「眺める」というのは「歪める」「撓める」「やめる」などの動詞と同じ構造で「強いて~の状態にする」という意味を持つ接尾辞「める」を含む。形容詞につく場合は「薄める」「深める」「苦しめる」といったものがある。

……というのは現代語で考えた場合の話であり、それぞれ古語では「眺む」「歪む」「やむ」「薄む」「深む」「苦しむ」となる。よってここに「強いて〈語幹の〉状態にする」という意味を持つ接尾辞の古い形として「む」を想定しておくが、ここではよき実感のため現代語を軸に話を進める。おそらく関連するであろう助動詞「しむ」のことはひとまず措いておく。

さて、「眺める」という言葉は漢字を捨てると「ながめる」となる。「長い」「永い」という言葉は同じく「ながい」となる。そこで、「眺める」というのは何も景色(landscape)に限った話ではないのではなかろうかと、かつて考察したことがあった。

語源が同じであるならば、仮定としてこのようなことが可能だ。同じ語源を持つ和語に当てはめられた漢字を別の和語に当てはめてみる。するとこういう可能性が見えてくる。

「長める」「永める」

果たしてこんなことが有り得るだろうか。推測を追ってみたい。まず前者は、距離的な長さをいうのだろう。

対して後者は、時間的な長さをいうようだ。ここまで書いて思い出されるのが王朝和歌における「ながめ」の発想だ。「長雨」と掛詞にされ数多くの秀歌を排出したこの言葉には、「あくがれいづる魂」が想定されていることが多いように感ぜられるが、漢字ありきで考えると唐突に視覚的な要素が入ってきている。これは何故なのであろうか。

論の初めに立ち返ってみると、「ながめる」というのは「強いて長くする」ことだという話になる。何を長くするのか。いったい何が長くなるのか。「撓める」「歪める」などの語では一般に対象が撓められ、歪められることを差す。しかし「眺める」という語を「強いて長くする」意味として解釈しようにも対象が見当たらない。「景色を眺める」といって景色が長くなるわけではない。ここで何度か論理は躓いてしまう。

眺めるという言葉には「強いて(語幹の)状態にする」その対象が見当たらない、という疑問を呈した。しかし、これにはもともと伸ばすべき、長くすべき対象が存在していた。それが、かつて古語において「眺める」の同音異義語として用いられていた「詠める」という言葉だ。これで「ながめる」と読む。

その持つ意味としては、①声を長く引き伸ばして吟ずる。朗詠する。詩歌を口ずさむ。②詩歌を作る。歌を詠む。のふたつがある。

とりわけ前者の意味内容に注目してみるとき、「眺める」という言葉とは別物として扱われているこの「詠める」に私は関連を見出ださずにはいられない。つまり、「声を伸ばす」ことを意味していた「詠める」に対して「視点を伸ばす」という意味が融合した上で、また別の意味と対象が付加されて生まれたのが王朝和歌における「長雨=眺め=物思い」という共同連想なのではなかっただろうか。

 王朝和歌における「長雨=眺め=物思い」の共同連想は、①「長雨を眺めていると」②「物想いに身が沈み込む」という段階を経ているが、それは③「ともすれば魂は身からあくがれいでてしまう」という前提を踏まえているように思われる。

①は深層的な長さ、凝視に伴う奥行きを差す。②は時間的な長さ、凝視がもたらす拡がりを差す。③は凝視がもたらす空間的な移動、心の遊離によって隔たりが生まれることを差す。見た、届いた、拡がった、そして浮かび上がった。そう考えるのは眉唾だろうか。そして、私はかつて直面した疑問に立ち返る。何が長くなるのか。何を長くするのか。初めその答えは「声」だった。ここに改めて問う。

では眺めるという言葉が引き伸ばしているものは何なのか。「目という機能が長くなっている」に過ぎない、そう結論づけてしまってもいいのかもしれない。だが、本当にそれだけなのだろうか?


 ここから先は本当の意味での随想、主観論になるかもしれない。いま私は王朝においてなされた数々の詠歌を思い返している。忘れたころに落ちてくる桜紅葉のように降ってきた思念があった。この問いの答え、それはあるいは「己」が対象なのかもしれない、と。つまり、景色を眺めることを契機として、自分の存在が長くなる、ということだ。

長雨に限らず、景色を眺めたとき人は少なくともその景色を見渡すことに時間を費やす。我が目を惹く対象を凝視し、置かれた状況によって様々な思索に耽る。そのとき往々にして時間のことは忘れている。物想いから立ち戻ったとき、それなりに時間が経過していることに驚き狼狽える。身体の移動を伴わない往還ということができるだろう。

眼前の景色に没入するとき、我を忘れることによって時間は普段体験しているそれより遥かに稠密なものへと姿を変える。

そして王朝時代、眺めるという行為は「景色を眺めてそれで終わり」といったものではなかった。雨を眺めては恋人の訪れのないことを呪い、花を眺めては恋人の髪にかざしたいと思う。現代でもそういうことは往々にしてあるだろうが、人々のあいだに和歌の贈答が行われていた分だけその頻度や哀切さは異なるだろう。

さて、ここに他者が垣間見える。

点でしかないはずの自我が、景色という現象を契機として、凝視という行為を媒介に拡張し、線を作り出す。他者の存在が強く意識され、強靭な糸で結び付きを綯う。これが空間的な距離を意識した心の移動、長さという「眺める」に隠された意味の正体であり、王朝人に「眺む」という概念が愛せられた理由なのではなかろうか。

 あとで気付いたが、「流れる」という語も細長く筋を曳いてたなびくということで「長い」「永い」「眺める」「詠める」と同じ水脈の言葉らしい。

ここは和語のよしみにあやかって、以下に本流たる王朝歌人の、「眺める」に根差した詠歌を流してこの稿の終わりとしたい。


古今和歌集

花の色は移りにけりないたづらに我が身よにふるながめせしまに/小野小町

(ああ、長雨の降るさなか桜の花の色も虚しく移ろって、見る人もいない。私がこの現し世に身を経るその物思いのあいだに。)

つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れて逢ふよしもなし/藤原敏行

(虚しい恋の物思いに川となってしまったこの涙、袖が濡れるばかりで貴方にお逢いすることも叶いません。)

起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめ暮らしつ/伊勢

(起きているということもなく寝ているということもない、そんな夜を過ごしては、それもまた春らしいと物思いに耽ってしまっていることです。)

和泉式部日記

大方にさみだるゝとやおもふらむ君恋ひわたるけふのながめを/和泉式部

(いつものことだと思っていることでしょう。貴方への恋の物思いが拡がってさめざめと降りしきっている今日のこの長雨を。)

俊成卿女集

眺むれば我が身ひとつのあらぬ世に昔に似たる春の夜の月/俊成卿女

(物思いに沈むにつけて、昔が偲ばれる。私ひとりで誰もいないこの現し世にかつて誰かと見たままの春の夜の月、それを眺めて。)

暮れはつる空さへ哀し心から厭ひし春のながめせしまに/俊成卿女

(暮れきる空でさえ哀しい。本心から嫌だと思って遠ざけた春が憂鬱な物思いに過ぎてゆく、そのことが一層切なくてならない。)

新古今和歌集

眺めつる今日は昔になりぬとも軒端の梅は我を忘るな/式子内親王

(物思いに見つめたこの今日がたとえ遠い昔になってしまったとしても、軒先の梅よ、菅原道真様の歌の梅ではないが私を忘れないでおくれ。)

眺め侘びぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月や澄むらむ/式子内親王

(月を眺めて物思いに沈むのにも堪えられなくなってしまった。秋という季節のほかに住まいがあったらなあ。それでも、月は野にも山にも澄んでいるのだろう。)

山家集

もろともに眺めながめて秋の月ひとりにならんことぞ哀しき/西行

(私と貴方と一緒に眺め暮らしてきたあの秋の月を眺めて物思いに更けるにつけ、ひとりになるということそれだけが無限に哀しい。)

秋篠月清集

生けらばと誓ふその日もなほ来ずばあたりの雲を我と眺めよ/藤原良経

(もし私が生き永らえると誓ったその日がそれでも来なかったならば、貴方の周りに漂っているその雲を、火に葬られた私と思って眺めてください。)


最後までお読みいただき有難うございました。少しでも古典和歌や日本語を身近に感じていただけたなら幸いです。この先は本文の補足および余談となります。お暇でしたらお付き合いください。

補足①

なぜ現代語を軸に話を進めねばならなかったか。例として「撓める」「歪める」を古語に戻した際に「悩む」「歩む」といった現代語でも古語でも不変の動詞の存在が考察の邪魔になるため。「強いて(語幹の状態に)する」意味を持つ接尾辞「める」は古語に戻すと「む」になり、見分けがつかない。

補足②

「貶める」という言葉がある。この動詞にこそ留保した使役の助動詞「しむ」が関わる。どう見ても「落とす+める」「落としめる」であろう。どうやら和語において動詞は対象を持つ場合に「eru」の音を持つ接尾辞を伴うらしい。(名誉を)貶める、(相手を)苦しめる、(山を)越える、(魚を)食べる、など。目的語を伴ういわゆる他動詞だ。

このうち無理を伴わないものが「越える」や「翔ける」や「統べる」といったもので、一定の無理や労力、負担を伴うものが「撓める」「歪める」「やめる」「止める」に代表される「める」なのではないだろうかと、まだ考えている。言語逍遥の醍醐味でもありまた始末に負えない点だが、一向に終わりが見えない。


あはれ/\かゝる在り樣をば當に眺めとこそ覺ゆれ。

というのがこの随想を終えての感想です。


ヘッダー/表紙:東山魁夷「宵桜」


Noteの記事にする前に、Twitterにて言及をいただきました。

https://twitter.com/etoileerrante1/status/1248506781782781954?s=20

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