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傘とおじさん

仕事の帰り、駅を降りると雨が降っていた。駅から家まで15分。傘をささずに濡れて帰るには少々厳しいどしゃ降りの雨だった。致し方ない。駅前のコンビニに寄って傘を買って帰ることにしよう。くだらない出費だなと思いつつ金を払って傘を買った。

傘を広げ、僕はトコトコと家路を急ぐ。10分ほど歩いてもうすぐ家だとなった辺りだった。僕は雑居ビルの軒先で雨宿りをしているおじさんがいるのを見つけた。仕立てのいいスーツは全身ずぶ濡れで、狭い軒先に身体を縮めて途方に暮れている様子だった。どこかからここまでは歩いて来て、だがここまでで心が折れてしまったに違いない。かわいそうに。僕は少し考えると、さっき買ったばかりの自分の傘をおじさんに差し出した。「僕の家はもうすぐ近くです。ほら、そこに見える緑の屋根の家がそうなのです。この傘で良ければどうぞお使いください」おじさんは何度も何度も僕にお礼を言うと、僕のあげた傘をさして駅の方に歩いて行った。うん、とてもいいことをした気分だ。ここから家まではもう5分もない。僕はどしゃ降りの雨の中を走って帰った。

ずぶ濡れで家に帰ると、妻は驚いて、「おやまあどうしたんですかそんなに濡れねずみになって。傘は持っていなかったんですか。傘がなかったならどこかで買えば良かったのに」と言った。僕が帰りにあったことを話して聞かせると、妻は笑顔になって、「まあ!それは良いことをしましたね。私はあなたのそういうところが好きで一緒になったんですよ」と言った。僕はとても嬉しかった。お風呂に入ってあったまって、妻とふたりで楽しく食事をした。

あの時はありがとうございましたと菓子折りを持って傘を返しに来たおじさんと妻が不倫関係になったのに気づいたのは、それから2年後だった。あの日と同じどしゃ降りの雨の日。交通機関が乱れる前にと早めに仕事を終えて帰ってきたら、妻と一緒にアイツがベッドの中にいたってわけさ。あの日と同じように、僕の手には傘があった。僕はおじさんに傘を食らわせた。ロンドン留学の時に習った護身術・バリツには、ステッキを使った格闘術がある。咄嗟の時には習い覚えた技術が出るものだ。僕はおじさんを傘で滅多打ちに打ち据え、やめてと泣き叫ぶ妻が呼んだ警察によって逮捕された。

情状酌量の余地があったとは言え、僕には立派な前科が付き、仕事を失い、妻とは泥沼の裁判の末に離婚することとなった。後悔しているかって?そうだね、心底後悔しているよ。あんなおじさんに傘なんて貸さなければ良かったってね。

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