終わりゆくもの
マスコミがマスゴミなどと揶揄されるようになってからもう10年以上になるだろうか。電車で新聞を読んでいる人を見ると、「今どきまだ新聞なんかを読んでいるヤバい人」だと思うくらいになった。今電車の目の前の席には、大きく股を広げ2席分を占有して新聞を読んでいるじいさんがいる。独断と偏見で言い切ってしまうならば、新聞の主な購読層はこういうヤバいじいさんたちだ(異論は認める)。
中学生の頃、新聞のコラムを毎日書き写すという宿題があった。今思えばクラス30人、全員の家で新聞を取っているという前提の課題だった。今、新聞を取っている家なんてどれくらいあるのだろう?ほぼ全員がスマホを持ち、画面越しに必要なニュースはいくらでも流れてくるようになった時代。新聞が売れなくなるのは当然の成り行きだ。売れなくなってくると、より売れるための工夫が必要になる。おそらく様々な試行錯誤を繰り返しはしたのだろうが、新聞を読まないような人に新聞を読んでもらうための努力は尽く徒労に終わっただろうことは想像に難くない。それでも何とかして部数を稼がねばならない。やがて売れるためなら手段を選ばなくなってくる。衆愚の目を引くためだけの低俗で極端な記事、まだ新聞の権威を盲信しているような特定の政治団体や宗教団体の都合に慮った報道。そうして出来上がった『マスゴミ』なのだろう。『スーパーマン』のクラーク・ケントが新聞記者であったように、かつて新聞記者には世の悪事を暴き、民衆に寄り添う正義のヒーローのようなイメージがあった。今そんなことを思っている人は誰もいない。せいぜい当の本人たちぐらいだろう。
新聞だけでなくテレビも似たような状況だ。僕の周りにも、テレビを持ってないという人が増えた。僕自身、「テレビを楽しみにして見る」なんてことはお笑いの賞レースの決勝ぐらいでほぼない。それだって、優勝した人のネタだけyoutubeで見ればいいやという人、そもそも興味もない人の方が多いだろう。様々な動画配信サービスが乱立する中テレビ離れは加速し、予算は削られ、それでも視聴率は稼がねばならない。誰もが楽しめる番組を作って視聴率を取ろうとする段階はもうとっくに過ぎ、まだテレビを見ているような層を何とかキープするための番組作りにシフトしている感がある。かつて僕たちが愛した『みんなのテレビ』はもう過去の遺物なのだろう。
世界は僕たちが思う以上の早さで進んでいる。こうやって毎日ブログを書くとか、お客さんを集めてお金を取って演劇を上演するなんてことも、おそらく時代遅れの産物になりつつあるのだと思う。いや、需要のある、意義のある立派なエンタメを提供していると思っているのは当の本人たちだけで、実はもうとっくにそうなっているのかもしれない。レンタルビデオ店がいつの間にか消えてなくなってしまったように、演劇なんてものももう消えゆく途中なのかもしれない。新聞を広げたヤバいジジイを笑っている場合ではない。僕たちももう演劇なんて古いものにしがみつく老人になって笑われているのかもしれない。こうやって自分が愛したものが時代に遺されていくのは歯がゆいものですね…。置いて行かれぬようになるべく価値観をアップデートしつつ、と言って固執し過ぎぬように、折り合いを付けながら生きていくしかないんでしょうね。
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