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少しだけ報われた恋

好きだった人がいた。いや、正確には好きという気持ちに育つ前、この人ともっと仲良くなれたら嬉しいなくらいだったかもしれない。ほんのりと好意を伝えてやんわりとフラれて、それでも諦めずに2人で会いませんかとデートに誘ってふんわりと断られ、あぁ脈なしなのだなと思って諦めて、気持ちに蓋をして沈めていた。まあよくある、とりわけ大人になってからはよくある小さな失恋だった。

それから3年くらい経った頃だったろうか。どういう風の吹き回しか、彼女の方から声を掛けてくれて2人で飲みに行くことになった。池袋の駅前で待ち合わせて久しぶりに会う彼女は短く髪を切っていて、それでも変わらず魅力的だった。適当に見つけた気取らない安居酒屋に入って酒を飲む。彼女は転職したばかりで、でもその新しい仕事がなかなか大変で、誰かに愚痴を聞いてもらいたかったらしい。たまたま白羽の矢が立ったのが……と言うか、何人かに声を掛けてたまたま捕まえられたのが僕だったようだ。というわけで愚痴を聞きつつビールを呷る。話題は次第に互いの近況報告になって、近況報告は恋愛事情に転がっていった。「最近どうなの?」「いやぁさっぱりだよ」「そっちはどうなの?」「3ヶ月に彼氏と別れて…」「職場にいい人とかいないの?」「ないないw」そんなやり取りでビールが進む。いつしか話は、『あの頃』の話になっていった。

「あの頃私のこと好きだったよねw」「半笑いでそういうこと言うんじゃないよ」「でも好きだったでしょ?」「そうだけど!」「ふふふ」「嬉しそうにすんじゃないよ」「好きって言われるのは誰だって嬉しいでしょ」「いやいや、そういうこと言われると勘違いしちゃうでしょ」「勘違い、ね……」「……」2人の間の空気の色が変わる。沈めたはずの想いの蓋がズズっとずれて、虹色の気泡がポコポコと浮いてくる。「ぼちぼち出る?」「うん、そうだね」ジョッキに少し残ったビールを飲み干して、僕たちは焼き鳥を少し残したまま店を出た。

2人とも明日も仕事で朝が早いので帰らないわけにはいかない。でもこのまま帰りたくはなかった。帰る方向は真逆だが、お互い終電までは3時間くらいあった。こういう時、お酒が背中を押してくれることがある。ホテルでも行かない?という提案に、彼女は一瞬迷う素振りを見せてから、いいよと言って乗ってくれた。裏通りの安いラブホで、終電までの僅かな時間、僕たちは慌ただしく抱き合った。ずっと好きだった人、脈なしだと諦めていた人、それからずっと会っていなかった、それでも変わらず魅力的だった人。それがこんなことになるなんて。もし運命の女神がいるのなら、抱き締めてキスをしたいくらいだった。残念ながら運命の女神は目の前にいなかったので、替わりに目の前の美しい人をたくさん抱き締めてたくさんキスをした。めくるめく時間はあっという間に過ぎ去って、我々は名残りを惜しみながら別れた。ホテルから駅までの道すがら、手を繋いで歩いた時間はあまりにも幸福だった。止まっていた物語が動き出したのだ。

そしてようやく動き出した物語は唐突に終わった。一夜明けて、昨日はありがとう、次はいつ会えますかという打診に、彼女はごめんなさいと言ってきた。彼氏と別れたというのは嘘だったこと、僕と関係を続けるわけにはいかないということ、愛情がなかったわけではないし昨夜は楽しかったけれど、もう会わないということ、彼女は簡潔に、それでも一生懸命に誠意を込めた文章で伝えてくれた。こんなことになるなんて昨夜は思ってもみなかった。僕はもう一度、彼女への想いに蓋をして沈めなければならなくなったが、それはとても難しかった。

報われない恋というものがある。そんなものはこれまで山ほど経験してきた。しかしこんな風に少しだけ報われて終わる恋もあるのか。少しでも報われたことを、一夜だけでも愛し合えたことを喜ぶべきなのか、それでも成就しなかったことを嘆くべきなのか。答えはない。1発ヤれたんだから良かったじゃないかと誰かは笑うかもしれない。いつか僕もそうやって下世話な笑い話に出来たらいいなと思っている。

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