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【ショートショート】暗がりのネズミ

 仕事帰りのマンホールが底なしの穴に見えることがある。街灯のない夜道、アスファルトの中にぽっかりと空いた闇。ちょっとした期待感から、右足を踏み出してみるが、冷たい金属が僕の気持ちをはねのけるのが常だ。
 今日は、そこに先客がいた。
 ネズミだ。
 薄く、平べったく、マンホールの蓋と同化して。
 お前も、越えられなかったんだな。その向こう側へ。車の力を借りたにもかかわらず。
 最寄り駅と職場とを結ぶその坂では、まれに見かける光景だ。住宅街だが、ネズミにも居場所がまだあるらしい。胸の内で十字を切りながらも、羨望の気持ちは止められない。
 マンホールと同化したネズミは、闇そのものと言ってもいいくらいで、はっきりとその姿を見ることはできない。闇への沈み方なら、僕もちょっとしたものだと思うが、さすがにこいつには勝てない。
 だから、翌朝の僕は少し心が躍っていた。出勤するのに心が踊るとは奇妙な話だが、本当にそんな気分だった。
 電車を降り、坂を下っていくと、そのマンホールが見えてきた。早朝の柔らかな陽射しの中に、その闇は闇のままでそこにいる。マンホールが光を反射するのとは逆に。
 その時だった。空から降ってきた影が、平べったいネズミをさらったのだ。
 大きく広げた翼が電線に止まり、電信柱との付け根の部分にネズミを置いた。
 カラスだ。
 右足でネズミを押さえると、その大きく無粋なくちばしが、その肉をついばんだ。一度、二度、三度。
 その真下を通りそうになっていた僕は、車道の反対側に渡ると、ただの干し肉と化したネズミを見上げた。ここからでは、乾いた葉っぱのようにしか見えない。ただ、黒いくちばしがそこからちぎり取る肉だけが、かつてネズミであったことの証明だった。
 急に体が重くなった僕はマンホールを見た。
 そこに残されていたのは、切り取られた影のような赤黒く乾いた血だけだった。

Photo by Connor Fisher on Unsplash

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