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【ショートショート】その拳で掴み取れ

 まるでサンドバッグだった。
 彼が身に着けていたのが、灰色のロングケープ一枚だったせいもある。見た目はまるっきりサンドバッグだが、それでもこんな一方的な試合展開、観客の誰も予想だにしなかった。
 空室だらけの雑居ビルの地下三階。何でもありの殺し合い。拳と金が乱れ飛ぶ、その狂乱の舞台で、今日がデビュー戦の最年少ファイターは、サンドバッグそのものだった。
 金網に囲まれたリングの中で一方的に乱打しているのは、二十年前にボクサーを引退した四十五歳のファイター。筋肉の仕上がりは上々だが、スピードに難ありの中堅ファイターだ。テンポの悪いヒット・アンド・アウェイは、スピード自慢のインファイターには通じない。最年少ファイターの持ち味は、まさにそこで、小柄な体を生かして懐にもぐりこんでからのボディは、表の試合では既に敵なしだったし、仮にバックステップで距離を取られたとしても、その軽量からは考えられない重いローキックが内腿に襲い掛かってくる。
 しかし、そのスピードが、完全に殺されていた。
 勝敗の賭けは、六四で中堅ファイターに軍配が上がっていたが、ラウンド数はこの格闘場の最終八ラウンドが一番人気。最終までもつれ込むというのが、あらかたの予想だった。
 観客席は、早くも荒れ始めた。闘券を握りしめた人々の怒号が、リングの中央から動けなくなっていた最年少ファイターに容赦なく降り注ぐ。反撃の手筋が見えないどころか、反撃の意志すら感じられないその態度に、中堅ファイターによる早期決着に賭けていた人々からも罵声が飛んだ。俺たちは一方的な暴力を見たいんじゃない。命を削るような殺し合いを見たいんだ。
 しかし、この会場で、最も追い詰められていたのは中堅ファイターだった。殴っても殴っても、手ごたえがない。文字通りのサンドバッグ。揺れては戻り、戻っては揺れ、そのうえ、その体は異常に硬い。二週間前に参戦した異種格闘戦で、ハンドアックスを持った中世かぶれのコスプレファイターと戦ったときよりも、硬い。あの時の相手は、ラメラ―アーマーと呼ばれる、金属のプレートをつなげて作った鎧を着ていた。勝ちこそしたが、その後一週間は拳が痛くて、飯を食うのにも苦労した。
 このままでは自分の拳の方が持たない。
 試してみるか。
 中堅ファイターは素早く背後に回ると、相手の腰にタックルした。この位置なら、拳も肘も届かない。蹴りが来たら、そのままバランスを崩して倒せばいい。ボディの守りが堅牢なら、そのまま締めて落とす。
 しかし、中堅ファイターが掴んだはずの腰は、その瞬間に消え失せていた。彼の目には何も見えていない。ただ、観客からは、最年少ファイターが軽業師のように中堅ファイターの肩を掴んで、宙を舞ったのがはっきり見えた。ロングケープがするりと脱げ落ち、中堅ファイターの頭にかぶさる。そのまま、前のめりに倒れる中堅ファイターの背中にまたがった最年少ファイターは、バトルスーツに包まれた中堅ファイターの頭を捩じ切った。
 静まり返った格闘場の中央で、最年少ファイターはためらいもなく赤く染まったロングケープを拾い上げ、再びその身にまとった。ゆっくりと短い拳を、天井に向けて突き上げる。
 一気に巻き起こった歓喜の怒号が、伝説の始まりを告げていた。

Photo by Ricardo Gomez Angel on Unsplash

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