【ショートショート】朝一番早いのは
朝一番早いのは、パン屋のおじさん。
子どもの頃、好きだった歌の歌い出しだ。休みの日の朝、父親がくれた小遣いを片手に、近所のパン屋に走った。店の外まで漂ってくる香ばしいかおりに、夏の暑さも冬の寒さも吹っ飛んだ。毎週のように食べていた焼きたてのチョココロネの味は、大人になった今でも忘れられない。
だから、この人生で叶えるべき夢ははっきりしていた。
深夜のうちから小麦粉を捏ね、寝かし、成形する。オーブンに火を入れ、クリームの下ごしらえ。チョコだけじゃない。クリームは色とりどり、全二十四色。甘いクリームはもちろん、酸味の利いた柑橘系のクリームや、レアチーズケーキのようなクリーム、総菜にできるようなおかず系のクリームも用意した。
店内にパンの香りが立ち込める。子どもの頃の記憶が蘇り、ぐっとこみ上げてくるものがあった。ついにこの日が来たのだ。
開店予定の六時を待ちきれず、五時五十分に店を開ける。入口のプレートをOPENに。白く輝きだした空に応えるように、店からはあの香ばしいかおりが漂っている。町行く人々は、思わず足を止め、そのかおりをたどってこの店へとたどり着く。ドアベルが鳴って、釣鐘型のコロネたちが歓迎する。
一時間。町はまだ熟睡中。どうやら、今日は会社は休みらしい。サラリーマンだった頃の習慣が抜けてしまったせいか、全く気付かなかった。
更に一時間。ドアベルは沈黙を守り、コロネはひたすらに積みあがる。学生も現れない。新たに国民の祝日にでもなったのだろうか。だとすれば、ついでにこの店の開店記念日にしてくれればいい。来年の今日は、全国から客が殺到するだろう。
そんなわけがない。
チョココロネを掴んで頬張る。冷めてもおいしい。当たり前だ。それでも、焼きたてを手に取ってもらうことに意味がある。昼食時に冷めたコロネを口にし、こんなに美味しいなら、焼きたてはもっとおいしいのかな、って次の日には昼食分ともう一つ、駅までの道すがら食べ歩きする用に余計に購入する。そのために店名を印刷したパラフィン紙も、ほらこんなにたくさん。
日が高く上り、昼食時になった。新しくパンを焼いても置く場所がない。冷え切ったコロネをこのまま転がしておくか、それとも。
その時、扉が開いた。
ドアベルは鳴らない。
小さな子どもが右手に小銭を握りしめて立っている。声は聞こえないのに、その目がチョココロネを求めているのが分かった。山の一番上に置かれていた、きつね色に輝くそれをパラフィン紙に包み、少年に渡す。手の中で温まった六十円を受け取り、椅子を差し出した。少年の目が落ち着かなげに揺れる。お腹がぐうと鳴り、頬がほんのり赤らむ。僕はチョココロネに手を伸ばすと、大きく一口かじった。チョコクリームが溢れて、あやうく床に落ちそうになる。少年から笑みが漏れた。そのまま、二人でチョココロネを平らげた。
そんなことは起こらなかった。今も昔も。
あの日、チョコクリームは床に落ちたのだ。それは少年だった僕のものだ。パン屋はその少年を怒鳴りつけ、少年は二度とパン屋に足を踏み入れなかった。もしも、あの日のパン屋が穏やかな気持ちでいてくれていたら、全く違う未来があったかもしれない。
朝一番早くなくてもいいから。
Photo by Prakash Meghani on Unsplash
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