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【究極思考00020】

 いつからだったか不明だけれど、アートにしろ、現代アートにしろ、いや、名称は何でも良いのだが、自分がいつの間にか信じている、現代アートは何かの図解であるべきではない、という思考がある。その出典は定かではない。厳密に、何ものの図解ではない表現として現代アート作品が成立しているかどうかは微妙かもしれないが、自分の現代アート作品への信念としては「現代アートは絶対に何ものかの図解であってはならない」というものだ。
 翻って考え直してみれば、確かに自分も仏教や禅の言説に近いものを文章に交えたり、哲学や現代思想の概念を指摘したり、無や空という仏教的な単語を使用したりすることはないとは言えない。しかし、それは作品のコンセプトのヒントを解説すために使用しているだけで、自分としては、何か宗教や哲学の図解を表現しているわけでは決してない。そうそれは、究極の現代アート作品「ART=・」や究極の絵画に至るプロセスの説明にさまざまな概念を引用したり説明したりしていたとしても、実際の作品自体は、究極の現代アート作品であり、それら何ものかの図解として表現されたものでは決してない、そのことだけは、ここで、強調しておきたい。
 しかし、何も表現しない極地・極限として存在した抽象絵画でさえも、たとえば安藤礼二や外国の評者が指摘しているように、マレーヴィチやカンディンスキー、モンドリアンの抽象絵画が、神智学の教義を表現することからなしえた作品だという驚くべき事実だ。いや、何も表現しない極地・極限として存在した抽象絵画の始原が、そうではなく神秘学の教義を表現したものだと知ったときの幻滅感と言ったら想像に難くない。騙されたとさえ思うのだ。何も表現しない究極の表現だと思っての評価が、実はそうではなく神秘主義の教義の表現だと知ったら、評価は半減されるしかない。確かにその表現を評価するとしても、その表現への大いなる評価は限りなく半減するしかないだろう。
 現代アートは何かの図解であるべきではない。自分の現代アート作品への信念としては「現代アートは絶対に何ものかの図解であってはならない」のだ。
 しかし、厳密な論理は常に諸刃の刃として論理自体に切って返される。論理矛盾が自らへも切りかかる。たとえば「無題」というタイトルを付けられた絵画作品は、しかし、「無題」というタイトルを図解していることにはならないだろうか。果たして本当にそうだろうか。自分の究極の現代アート作品「ART=・」は、タイトルが通常『「ART=・」サブ的名称00000』という様式で付けられているが、それは作品自体が『「ART=・」サブ的名称00000』を図解しているのだろうか。それは、ふと思い付いたのだけれど、タイトルと作品がイコール=等価なだけであって、タイトルを図解しているわけではないのではないか、と。たとえばマレーヴィチの「黒い四角形」という作品は、白地の四角形の支持体に黒い四角形が描かれていて、作品とタイトルは、「ART=・」と同様に、タイトルと作品がイコール=等価であり、それ以外の何ものも表現していない。しかし、安藤礼二や外国の評者の指摘を信じれば、マレーヴィチの「黒い四角形」は、神智学の理想を表現しているという、ある意味では、まさに神智学の理想の図解だと解釈される。逆に自分の「ART=・」シリーズは、何も図解してはいない。なぜならタイトルと作品がイコール=等価なままだからだ。そこにはひとつふたつみっつの0.8mm程度の点=・が置かれているだけだ。敢えて宮川淳に倣うならば、何も意味していない究極の作品「ART=・」シリーズは、アートをしか意味していないだろうということとなる。それがすべてなのだと今は思っている。

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