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小説よりも、「台詞」と「ト書き」の世界

間もなく9月も終わる。早いものだ。

今月は、脚本を2本書いた。今、3本目を書いている。家の事情があって、結構忙しくなってしまい、ゆっくり創作活動をしている時間もなくなってきた。昨年はpixivに小説(もどき?)を書いていたのだが、特にバズった作品はなく、そのうち脚本の方が忙しくなったので、小説は書かなくなった。書かなくても、特にこれといった感慨もない。焦りもない。

僕は、あまり小説には執着心がないらしい。というか、そもそも小説を書くことがあまり得意ではないらしいのである。


僕の専門は戯曲だが、小説と戯曲の大きな違いは、「風景や心情の描写の有無」であろう。小説は、会話文の他に、細かい風景や状況、主人公の心情の描写(「地の文」)がある。普通は、こちらの方が圧倒的に多い。だが、僕は自分が納得のいくような地の文が書けたことがない。例えば「小道具」にしても、そのシーンやその人物がそこで持っているのに相応しいもの、何かを象徴するようなものの、固有名が思い浮かばないのだ。登場人物が来ている服のブランドだったり、服の形状だったりも、適切な言葉が思い浮かばなかったりする。

人物や状況の描写が苦手というのは、小説家にとっては致命的だと思う。小説家は、それで勝負しているようなものだ。それができないのでは、小説で人を惹き付けることは難しいと、自分でも思わざるを得ない。


戯曲は、度々書いているように、ある種の「骨組み」である。そこにあるのは、台詞(話し言葉)とト書き(状況を説明する文)だけ。これを埋めるのは、稽古場での演出家・俳優・スタッフの共同作業である。僕はこのスカスカな感じが好きだ。時々、台詞の所に括弧書きで、その台詞をどういう風に言うかとか、どんな状態で喋るかとかが、具体的に書かれていたりするものもあるが、僕はあまり感心しない。それを含めて、演出家と俳優が、最適なものを求めて戦いながら作っていくのが演劇だと思っている。作者の意図は、あくまでも台詞とト書きの中に塗り込めて、それ以外は沈黙を守るのが正しい。そうしないと、創作の場が実りの少ない、刺激もない、それこそスカスカなものになってしまう。


自分が作った骨組みに、どんな肉付けがなされるのか。それが楽しみなのが戯曲のいいところである。小説も、結局は読者の頭の中で、様々なことが肉付けされ、様々な解釈が生まれることによって「完結」するわけだが、作者はそれをついぞ見ることはできない。つまり、小説の作者は「完成形」を最後まで見ることができないのだ。

戯曲の作者は、観客の頭の中の一歩手前のものを見ることができる。骨組みから形作られた「作品」の具体的な像を知るわけだ。これはある意味、戯曲作者の特権といっていいかも知れない(勿論、創作の現場を見られず、骨組みがどんな肉付けをされたのか確認できない作品もたくさんあるのだが)。この面白さを知ってしまったからには、もう小説家や詩人にはなれない。チャレンジで小説を書くことがこれからもないとは言えないが、基本的には、僕はこれからも、台詞とト書きの世界で勝負していくことになると思う。


骨組みだけ作ればいいというと、何だか凄く楽をしているように聞こえるが、そうとばかりは言えない。肉付けがちゃんとできるような、また、肉付けすれば、元の骨組みより数十倍、数百倍面白くなると確約できるように、骨組みを組み立てる必要がある。これはこれで、なかなかに難しい。

結局、小説家や詩人と劇作家は、どっちが上下の関係ではなく、どちらも難しさがあり、どちらにも面白さがある。僕は、骨組みの方を選んだ。きっかけは偶然だったが、今では運命的な出会いだったと思っている。

だからこそ、最後の最後まで、例え地獄の果てまでも、台詞とト書きに塗れていくつもりだ。

(写真 がんもと)

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