神様は本当のところは存在するのか

人間には決して知ることができないけど、本当はそうであることが確かに存在するだろうという考え方を「実在論」というそうだ。

たしかに、僕たちにはまだ知らない世界が山ほどありそうなのは容易に想像がつく。でも、それがなんなのかはわからないよね。

まず問い自体が立てられないんじゃないか。いや、どうだろう。例えば、今僕が簡単に思いついたのは「神はほんとうのところは存在するのか」である。僕からすれば、存在しないと答えることになる。でも、日本人には神様がいると信じている人もたくさんいるだろうし、イスラム教、キリスト教などを信じる人からすれば本気で神様はいると信じている。これはすごいことだよね。

だって、今のご時世、人と人がここまで明確に分かり合えない場面ってほとんどないと思うんだけど。

いや、そりゃ意見の違いはもちろんあるよ。大学にいくべきかどうか、とか結婚するべきかとかは、個人の価値観とかその人の育ってきた環境によって変わってくるだろうね。一部の頑固な人を除いて、こういったテーマについて自分とは別の意見の人がいようと、「あなたはそうなんですね」って感じで流せると思う。必要以上に深入りしないで済むと思う。まあその意見も理解できるなって感じ。

でも、「神様ってほんとうはいるの、いないの?」っていう問いは少し話が違ってくると思うんだ。そりゃ、もちろん「なるほど、あなたはそう考えるんですね。」で済む話といえば済む話だけど。それは人間同士が折り合いをつけていくための表面上のコミュニケーションの話で。僕が言ってるのはもっと根本的なこと。だって、神様がいるかどうかって、存在するかどうかの話だから、その人がどういう育ち方をしてこようが、真実はいつも一つのはずじゃない?

さっきの、大学にいくべきかどうかは、その人の夢とか、お金の事情とか、両親の意見とかそういうのを加味して最終的には個人が決めればいいことだよね。

だけど、神様はいるかどうかって、もし人によって意見が違えば、それは矛盾になるじゃん。どっちが本当なの?ってなるよね。

まあ、大学に行くべきかどうかとか、結婚するべきかどうかというのも、別に真実がどっちっていう答えはないわけだけれど、でも、その人が自分で選択できたら、もうそれで人は納得するんだと思う。別に個人だけの話じゃないよ。会社でも、何か重要な意思決定をするとき、例えば今後のビジョンを決める時にも、会社の関係者全員が納得してそれにコミットできるようなものなら、それでまあ大方の人は納得するだろうし、納得できなければやめるなりなんなりすればいいよね。

一方、神様の話は別だと思う。

ここまで、人が納得するかどうかで話を進めてきたから、例えばAさんは、神様がいないと信じていて、その回答に自分なりに納得しているとすれば、それでいいじゃないかと。そう思えてもくるけど。

だけど、なにかが違う気がする。それは「神様がいるかどうか」という問いは、存在に関わる問いだからなのではないか。

その人がいるかどうか。「宇宙人がいるかどうか」も同じ類の問いだね。
それは、必ず真実があるはずだ。え、あるよね?これどうだろ。

皆さんはどう思うのかな。この問いが意味を持つのは、それが人間(あるいは人間以外の別の何か)によって明らかにできるということが分かっている場合のみなのかもしれないね。

でも、たとえ人間は決して知ることはできないけど、真実は一つであることは間違いないよね。だって神様がいることと、神様がいないことは両立しないもの。

あー分からない。不思議だなあ。

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