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歌枕の森~時間を溶かす風景

灰〜記録による忘却

記録は、時間を固める。
記憶は、時間を溶かす。
記憶は、記録に置き換えられていく。
記録は、外へと書き出す運動。
ただ、その外には外が無い。
記憶を剥ぎ取られた空間は、区分けされ、
消費されていく。
記憶は、灰になる。


火〜土地の聲に応える。

講演や授業で旅先に行くと、風景から何かを読みとろうとしている自分に、ふと気付くことがある。其処に居る誰かを探し求めているような、何処からともなく発せられる聲に向けて、無心に耳を傾けているような、不思議な感覚を持つことがよくある。

もしかしたら、遥か昔、私と同じようにその土地訪ねた誰かが、わたしと一緒に、この風景を見つめているのかもしれない。

誰かがいる。

車窓を流れる風景を眺めながら、いつの間にか直線的に流れ去る時間感覚から離脱し、まるで層を成した時間の中を浮遊するように、物思いに耽ることがある。

数多の人々がその土地と出会い、感じたことや、その土地で暮らした人々が抱いたイメージは、決して消え去るものではないのではないか。こうして旅先の風景を前にしている自分もまた、古人の思いや感覚と共にあるのだと、強く感じることがある。

土地の風景の中には、人格に似た何かがあるのではないかと。

歌枕の地を訪ねた時に、わたしはそのような思いを特に強く抱くことがある。
昔その土地を訪れた旅人の人格が、土地に宿る人格と溶け合うことで、歌枕の地は生まれたのではないか。
それらの聲に応え、歌を詠むことで、記憶の中に火は灯され続けてきた。

この国は、かつて歌枕の森で覆われていた。

古来歌人たちによって詠われ、詠い継がれてきた土地や地名が、次第に歌枕と言われるようになったという。

西行などの漂泊僧が、能因などの歌枕の地を訪れ新たな歌を詠み、その後にも芭蕉などの俳人や歌人が訪れ、或いは遠くその地に思いを馳せ、新たな歌を詠み継ぐといった伝統がある。

何も、有名な歌人が詠んだから歌枕の地になるわけではない。実際に、全国の至る所で有名無名の詠み人による歌碑を見ることができる。

私が関わってきた霞ヶ浦も、歌枕の地のひとつだ。

  春がすみ霞ヶ浦をゆく舟のよそにも見えぬ人を恋ひつつ     藤原定家

よそにも見えぬ人は、何処にいるのだろうか。

よく知られている歌枕の地以外にも、歌碑や書物には残されなかったが歌が詠まれた土地が、この国では至る所にあるはずだ。日本ほど詩人の多い国は無いと云われるくらいだから。

その土地に宿る人格と、その土地と出会った人々の人格が溶け合い、そこにひとつの風景が生まれる。
そのひとつひとつが、心象風景として持続していく。

こう考えると、よく耳にする「手付かずの自然」という言葉が何か陳腐に聞こえてくる。それは、この言葉の背景に、自然と人間を分けて考える欧米型の自然観があるからではないか。
だから、歌枕の森に暮らす日本人は、自然を保護の対象として客体化(外に)するのが苦手なのかもしれない。

詩魂〜土地への魂の働きかけ

わたしは、日本の人々の自然体験の原点の一つに歌枕があるのではないかと考えている。詩魂という言葉がある。
歌枕は土地に対する魂の働きかけと言ってもいいのではないか。

日本の詩歌は、本来は自分の中に浮かんできた想いを、或いは作者の想いを追体験するために、聲に出して詠むものであって、文章に書いたり黙読する(読む)ものではなかった。

詠むという行為は、深く精神的で美的な、かつ創造的な働きかけである。ひとり風景の前に立ち、歌を詠む人の姿を想像してみてほしい。其処には呼び掛ける聲がある。

それらの聲は、風景への魂の働きかけとなって、土地に溶け込み「流れ去ることの無い時間」、つまり持続を生み出してきた。流れ去ることのない時間とは、風景の中で溶け流動する時間だ。

古人の求めしところを求める。

風景への働きかけは、芭蕉の有名な次の言葉からも読み取ることができる。

「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ。」

古人の求めしところとは、私が先述した聲をいうのではないか。旅人が感覚を研ぎ澄まし、無心に風景を見つめ、土地の声に耳を傾けている姿が想起される。

文化的な背景は全く違うが、ウィーンの作曲家グスタフ・マーラーが残した「伝統とは火を守ることで、灰を崇拝することではない」という言葉を思い出す。

もしかしたら、現代人は記録やデータという名の灰から火を熾そうとしているのかもしれない。

時間と空間は消費されるものに変わった。

現代を生きるわたしたちは、ただ消費されるだけの無味乾燥な時間や空間を生きていないか。現代人は、時間も土地も区分けされた均一化された条理空間の中にすっかり取り込まれている。何時何分、何丁目何番地、何平方メートル、地価など、記号化や規格化された時間と空間へ順応させられ、設計された通りに動かされている。
ベルグソンが言った「時間の空間化」は、ますます先鋭化するばかりだ。

土地の記憶は、開発によって剥ぎ取られ、記録に置き換えられ、忘れ去られていく。土地は繰り返し消費できるものに変わった。

灰から火を熾す。

記録とは、何もかも外に向かって書き出し蓄積する運動である。
運動の中では、出来事は、いつも、わたしたちの外に、である。

わたしたちは様々な機能によって分類され、合理的に配分され配置された時間と空間の中を生きるようになっている。効率よく管理するためにゾーニングされた時間と空間によって構築される管理社会では、人間も土地も均一空間を構成する部品のように扱われる。   

人々の動きは、日々記録され、膨大なデータとして蓄積され、ビッグデータが生成される。今日の管理システムは、ますます高度化し、人々の生に深く浸透しつつある。

人工知能AIの進歩が、わたしたちにどれほど大きな影響を及ぼすとしても、それらは、わたしたちの外(書き出され蓄積された記録データ・記録による忘却の中)で起きる出来事であることに違いはない。

だが、その外には、外が無い。

灰から火を熾すことはできないと思う。

聲を失った観光地

時間と空間を効率よく消費するための区分けやゾーニングによって、土地土地の声も心象も消滅していった。古人が求めしところ(聲)は、各地で打ち消されつつある。

名所旧跡といった観光地からは、旅人に語りかけ心を癒す土地本来の力が衰退している。古くからの観光地が寂れたり、逆に人が殺到し俗化してしまった原因は、聲の喪失にあるのではないか。

観光地を訪れる旅行者の多くは、写真を撮ることやSNSに投稿すること(記録)やモノやコトを購入することに夢中で、土地の聲に耳を傾ける余裕はないようだ。体験はあらかじめ念入りに設計され、ブランドとなって消費されていく。

「古人が求めしところ」を求める問いの力が、聲を聞き取る力が、人々から急速に失われている。でも、そのことに気付く人はまだ少ない。

近代化は、土地から記憶を剥ぎ取ることから始まった。

明治時代に入ると間もなく、日本が近代化を押し進める中で引き起こした象徴的な事件がある。足尾鉱毒事件だ。1906年7月1日、ひとつの豊かな農村が国の治水政策によって消滅した。

足尾鉱山での銅の生産は、当時日本の近代化を支える主力産業であった。足尾鉱毒事件は、日本が歩み出した近代化の影の部分を象徴する出来事のひとつだ。

「渡良瀬遊水池」は、足尾鉱山が流し続けた鉱毒を溜めて、毒が首都東京に流れ込むのを防ぎ、同時に鉱山開発が渡良瀬川上流で惹き起こした大規模な森林破壊による洪水を防ぐことを目的に、明治政府によって造られた。

そのためにひとつの村が消え、地名も剥奪された。その村の名は谷中村。現在使われている「渡良瀬遊水池」は地名ではない。治水機能を割り当てられた場所を示す専門用語だ。遊水池の中は、第一第二第三とゾーニングされ、それらが部品のように治水機能の一部を割り当てられている。

土地が有する人格を剥奪する。

ゾーニングを割り当て、ひとつの機能だけでその土地を評価し、他の価値や存在意義は認めないという発想。それは、土地が有していた記憶を剥ぎ取り、土地の人格を剥奪する、当てはめられた枠組みの外は無い、近代化の発想があった。

足尾鉱毒事件と戦った田中正造が、「遊水池」という言葉を使うことを、最後まで拒み続けた理由は、まさに、そこにあったのだと思う。

足尾鉱毒事件から100年以上経た現代社会を見ても、利権や既得権益を優先させ、問題の根本原因には迫ろうとはせず、対症療法でその場凌ぎや時間稼ぎをする、決断力を欠いた政治の有り様は、全く変わっていないように見える。

「イデオロギーは外というものを持たない」 アルチュセール

人間もゾーニングされる。

それから五十年後、過ちは繰り返された。1956年に公式確認された、水俣病事件である。戦後の日本経済成長を牽引した最先端の化学工業が、熊本県など不知火海沿岸で悲惨な健康被害を引き起こした戦後最大の公害事件だ。

ここでも、ゾーニングは行われた。

工場廃水の水銀で汚染された海域では、汚染された魚が水俣湾から出ないように網で仕切られた管理区域や、汚染土を処分する埋立地が設けられた。

管理のためのゾーニングは土地だけではなく、人間に対しても行われた。公害病被害者への国による認定や非認定という区分けだ。この理不尽な処分に対して、今もなお被害者による不服申し立てが続いている。

人間と土地を癒し、記憶を取り戻す笑顔との出会い。

水俣病問題を中学生時代に知ったことで、わたしは今日まで環境に関わることになった。だから、これまで水俣を訪ねたことが何度かある。

ある時、水俣病被害者の杉本栄子さんの自宅を訪ね、お話を聞かせてもらったことがある。漁業を営んでいた栄子さんから、その時わたしが強く感じたのは、土地の聲に応えながら海と共に生きようとする姿だった。そして、彼女からは人間の復権を求め続ける揺るぎない意志を感じた。

「恨むのも憎むのも疲れたから、もうやめた」

彼女の溢れるような笑顔や明るい声が忘れられない。
それは、傷付けられた人間と海を癒す笑顔だ。

彼女と出会ったことで、不知火海はわたしにとっての、記憶の海へと変わった。

初めて訪ねて来た私に、これは今朝とってきたと言って調理してくれたナマコの味も忘れられない。彼女との対話、それは、わたしにとって掛け替えのない時間になった。

豊かな海を取り戻すために、人は記憶の海への回帰を繰り返す。

  不知火を
  見てなほくらき
  方へゆく          伊藤通明

記憶とは、人が最も深く親密にして最も遠くにいる自分と邂逅する場なのかもしれない。

ゾーニングの発想で自然を守るとこはできるのか。

現代社会は至る所で土地や時間、人間を管理するための区分けやゾーニングを拡大し続けている。不思議なことに、自然と共生する社会を求め自然保護や循環型社会作りを標榜する人達にも、区分けやゾーニングの発想から出ようとしない人が多い。

土地の区分けやゾーニングによってしか、自然を守っていけないとしたら、余りにも展望が無いとは思わないのか。
もし、そのような方法で自然が守られたとしても、土地の聲が聴こえず、古人の求めしものを見失い、審美眼や創造力を失った現代人には、どのような未来が待っているのだろうか。

記憶の海へ漕ぎ出す。

管理から働きかけへ。わたしたちが土地の聲に耳を傾け、感覚を研ぎ澄まし、古人の求めしところを求め、風景の中に時間を溶かしていけば、歌枕の森は蘇るにちがいない。

わたしは再び鬱蒼とした歌枕の森に分け入りながら、忘れられていた時間と空間の豊穣を取り戻していきたい。

その森が水源となって、いく筋もの水脈が生まれ、或るものは合流し、或るものは分かれ、やがて海へと流れ込む。

  象潟や
  雨に西施が
  合歓の花         松尾芭蕉

歌枕の地、秋田県象潟は、わたしを惹きつけてやまない風景のひとつだ。固められた時間を溶かすために、わたしはこれまで何度も象潟を訪ねてきた。

象潟は、芭蕉が奥の細道で訪れた最北の地だ。彼は、小舟を入り江に浮かべ、九十九島を巡ったという。
彼は、平安時代の漂白の歌人能因が庵を結んだ能因嶋を訪ね、桜の老木に寄り添いかつてこの地を訪ねた西行を偲んだ。

芭蕉は奥の細道の中で、象潟を「松島は笑うが如く、象潟は憾むが如し。寂しさに悲しみを加えて、地勢たましいをなやますに似たり」と評している。

芭蕉が小舟で巡った海は、1804年に起きた地震で起きた地盤の隆起によって失われ、今は水田の中に九十九島が浮かぶ風景へと大きく変わっている。

今はない海を巡りながら、ふと思った。

海は、あの時すでに、芭蕉の記憶の中にあったのかもしれない。

彼は、記憶の海へと漕ぎ出したのではないか。

わたしを乗せて。


              あさざだより巻頭言(2006年7月1日)に加筆

                  

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