【先行公開!】キャンサーイート〜癌が喰う〜 1話 プロローグ
時は2010年、今から十年前だ。世間はバンクーバーオリンピックに出場した浅田真央の話題で大盛り上がりだ。そんな時代の話になる。もちろんこの頃には働き方改革などはなく、大学病院の職員は多忙を極めており、皆慢性的な睡眠不足だった。
地方都市にある大学病院で、耳鼻科の手術が行われる直前のことだ。執刀医の北里純は、白髪をジェルで固めたオールバックの上にオペ帽を被り、手洗い場に向かってオペ室の廊下を歩いていた。すれ違う若手外科医の多くは長身で目立つ北里を見つけると、笑顔で挨拶をした。そして向かい側から麻酔科医の倉木真弓は手を振りながら北里のところへやってきた。
「北里先生、お疲れ様です」
「よぉ、真弓。今日も独身をこじらせてるか?」
いつものことだけど許せない。三十過ぎたらもう笑えません!先生だって准教授になってもお酒飲んでばっかりで誰も結婚してくれないじゃないですか!
「私行きますよ!」
「まあ待てよ。いつかお前を拾ってくれる徳の高い僧が現れるかもしれないじゃな
いか。そう怒るな」
僧!修行を積まないと私なんてもらってくれないって言いたいんですか?私だって、そう美人じゃないですけど、もっと綺麗にお化粧とかしたら変わるかもしれないじゃないですか!今はお仕事メイクなんですよ!
「確かにお前の独身は難治性疾患(治療が非常に難しく病状も長く続いて日常生活
の負担が大きい病気のこと)だ」
「先生!」
おっと、怒ったか。相変わらず子供みたいな顔をして怒るやつだ。そろそろ俺と遊んでないで、本当に恋人でも作れよ。さすがに心配になってきた。
「いい加減にしてください!」
「おう、悪かったな」
反省の色がまったくない謝り方だなあ。こらしめる方法は無いんだろうか。
「真弓、お前はどこのオペに入るんだ?」
「歯科です。上顎洞癌ですから、先生のところと一緒ですね」
上顎洞癌。術後の顔の見た目が悲惨なことになる残酷な癌。
上顎洞とは鼻腔の外側やや下方に位置する骨の中の空洞で、この上顎洞に発生した悪性腫瘍を上顎洞癌という。症状としては、鼻づまりや鼻血、膿のような鼻水が出たりするが、頬を押さえると鈍痛がする程度しか症状が出ないものもある。さらに進行すると上顎洞癌自体が大きくなって、顔が腫れたり、癌が大きくなることで眼球を圧迫して視力が落ちたり物が二重に見えたりしてくる。上顎洞は顔の表面からの距離も短く、眼球等も近くにあるため、手術となると眼球摘出を伴う切除を行う事もあり、顔面形態が著しく損なわれる事が多い。
「俺にはスピードも出血量の少なさも及ばないだろ?」
「答えづらいことを聞かないでくださいよ」
「それじゃあ頑張れよ」
和やかな雰囲気になり二人が別れようとすると、北里と倉木の間を一人の若い外科医が肩で風を切って割って入るように通り抜けた。オペ帽からは長い襟足が肩まで伸びている。
「ずいぶん髪が長い外科医だな。生意気そうな目をしてる。どこの兄ちゃんだ?」
「歯科のドクターです」
「本当にあそこは調子に乗ってるな。耳鼻科の患者をたまにくすねるんだ」
くすねるとは盗むという意味合いを持つ言葉だが、耳鼻科と歯科口腔外科ではいずれの科も顎顔面外科領域の癌の手術を行う。すなわち耳鼻科と口腔外科で顎顔面外科領域の癌患者の手術の取り合いになり、挙句横取りされる事があるということだ。これは症例数が多いほど科としてのデータを多く集められ、学会発表や論文執筆において有利になることによる。
舐めた態度の歯医者の兄ちゃん、お前さんも躾がなってないようだな。
「それじゃあ私、オペに入ってきます」
「ああ。俺も手洗いを済ませてオペに入る」
ずいぶん荒んだ目をした兄ちゃんだ。そして影がある。飲み屋で顔合わしたら挨拶
しろよ。嫌になるほど酒飲ませてやるから覚悟しとけ。
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キャンサーイート〜癌が喰う〜 白瀬隆