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エッセイ#1 エッセイを始めてみようかと思った話と最近SNS見るのが疲れるってお話


エッセイを始めてみようかと思った

文章を書くのが苦手、というか妙に体力をつかいます。
メールの返信などのテキストコミュニケーションもいつもこれで良いのか迷いながらやっています。
テキストコミュニケーションについてはさておき、なぜ文章を書くのが苦手かというと、元々そんなに得意ではなかったことに輪をかけて職業柄な気もしています。

プロフィールをご覧になった方は、いや、そもそも僕のこのnoteアカウントを知っている時点で科学コミュニケーターをしていることはご存じの方が多いのではないでしょうか?なんならこれを読んでいるあなたも科学コミュニケーターでは?笑
科学コミュニケーターの仕事って?についてはそれだけで何本か書けてしまいそうだし、体力を消費するので割愛しますが、文章を執筆する仕事の機会が多いです。記事とまではいかなくても、簡単なプレスリリース、日々のSNS投稿、パネルテキストなど1週間仕事をすると何かしらの文章を書くことがあることが多いです。僕の場合、これが慣れないのです。
仕事ではどんな文章を書くときでも少なくとも以下のことに注意して書きます。

  • 扱う科学やテクノロジーについて齟齬がないか?

  • 誤った表現などをつかって研究者の皆さんの意図と違うメッセージが含まれてしまっていないか。

  • 届けたいターゲットを設定し、それを意識した文章や情報量になっているか。

  • 本当は社会実装までまだ先のことなのに、今の自分の悩み事がすぐ解決できる!など過度な期待を受け手に与えてしまっていないか。

科学やテクノロジーを文章で扱うときは上記のようなことは避けては通れないと僕個人は思っています。さらに扱うテーマによっては上記の他にも気をつける点が多々あります。
書くのが嫌ではなく、のってくれば楽しいですが、最後は毎回かなりドキドキしながら公開します。執筆時間も長くなります。つまり、そこそこ体力を使うのです。
となると意気揚々とつくったこのnoteが記事の公開がされないまま塩漬けされていくわけですね!(当初は科学の紹介とかしまくろう!ぐらいな気持ちでつくったので。)
3年かけて公開記事1本。下書きだけが増えていく…。でもなんか文章が書きたいなと、書く練習はしたいなとは思い続けています。


なぜか?

単純に文章を書くのがうまくなりたいから。
生きていると同時にいろんなことを考えることが増えすぎて、その瞬間の思考の整理がしたい。
SNSで思ったことを言うのが億劫になってきた(後述)。

そこで思いついたのがエッセイです。 エッセイという言葉を調べてみると。

自由形式意見感想などを述べた散文随筆随想
特定主題について述べる試論。小論文。論説

デジタル大辞泉(小学館)

なんか自由に書いても良さそうじゃないですか?
…結局文責は僕なので炎上することを書けば炎上するのですが、誰に見て欲しいなどもとくに定めず、考えてることや思ったことなどを書いてみて執筆の頻度を上げるのにちょうどよいかなと。

ということでダラダラといきなりタイトルにエッセイとつけましたが、肩書に囚われすぎずに自由に思ったことを書いてみたくなんたんだなって思ってください笑。

みんな最近のSNS(特にX)どう思ってる?僕はちょっとしんどいよ

前置きの方が長い文章になりそうですが、noteを書きたくなったもう一つの理由かつここしばらく思っていることは「最近Xを見るのも発言するのも疲れる」問題です。
僕は仕事でXをめっちゃ使います。どれぐらいのアカウントで発信してるんだろうと数えると、4アカウントぐらい仕事やプライベートで運用しています。科学コミュニケーションやPRの視点からコミュニケーション手段として仕事上有用なツールの一つです。Xを通してみなさんに我々の活動を知っていただき、拡散してくれること、感想をリプライくださること(ポジティブな反応もネガティブな反応も含め)非常にありがたく受け取っています。
ではなぜ疲れるのか?

X、全体的に殺伐としていませんか?

今更じゃない?と思われるかもしれませんが、根拠はないですけどなんかひどくなっている気がします。
前だって誹謗中傷で人が死んでいるし、炎上なんて10年以上前からしている。
でも、心無い発言が増えている気がする。インプレゾンビも個人的には見つけるとブロックするぐらいには煩わしい。
一部の極端な酷い例は今までもいっぱいあったのだと思いますが、日常的な不寛容さが増していると感じています。
なので最近Xでの投稿が億劫になり頻度が減っています(単純に最近忙しいのもある)。

より目立ったほうが特をするような気がする経済的な流れ?

Xに限らず、YouTubeだろうとTikTokだろうと同じかもしれませんが、昔から目立ったもん勝ちな流れがあるように感じています。
そこに倫理的な配慮は恐らくあまりないのではないかというバズるシステムが形成されている気がする。
そういった流れの中、炎上系ということは生まれて死語になり、私人逮捕という言葉が生まれて死語になり、、、という目立つためには以前より過激なことをしないと注目を集められず、結果そうしないとお金が回らないんじゃないかと思っています。

格闘技だけしても人が見ないから、その前に、適切とは思えない言葉で罵倒する。

ビジネスの話だけだと人は見ないから、怒鳴り散らし喧嘩をする。

ただ社会課題について話し合うのではなく論破することが前提のディスカッション。

そうやって過激に注目を集め話題性をつくったほうがお金が流れる。インターネットによる過激な経済圏ができてしまっていないでしょうか?
それが成功例として注目を集めると、一億総メディアの社会でみんなが知らず知らずのうちに過激な言葉を受容し、不寛容であることを心の何処かで肯定していないでしょうか?
さらにはXはインプレッションによって収入が入るシステムまでできたのだから、みんな注目を集めたく過激になっていませんか?このシステム、SNSとしてどうなんだろう…。

そういった風潮が実際あるのかわからないが、なんだか個人的には日に日に疲れてしまったのです。

「面白い」のメインストリームがそれで本当にそれでいいの?

恐らく上の例にあげたものから特定のコンテンツを想像した人はいるでしょう。
中には、「あれはそういうバラエティだから」「見たくない人は見なければ良い」「面白いから流行ってるだけでしょ」などが頭に浮かぶ方もいるのではないでしょうか。
ただ、やっぱりどうしても個人的にはそういうものが「面白い」とされるコンテンツの中心に取って代わられるのではないかということにとても懸念を覚えています。
まだまだこういった注目を集めたいだけのコンテンツは社会のメインコンテンツではないのかもしれません。それでも、再生回数やインプレッションを見るに結構な人が見ているのが現状です。
何でもかんでも行儀よく真面目である必要はなくても良いですが、上記とは違う「面白い」が世の中の中心であり続けて欲しいです。

すべての人が夜のゴールデンタイムに同じコンテンツを見る時代は終わりました。選択肢が多様化する中で、誰かを不用意に傷つける過激なコンテンツが今後、社会の面白いのメインストリームにならないことを願ってやまないです。

できれば、SNSでそうした不寛容な投稿をする流れも止まって欲しいです。

人が面白いと感じる瞬間ってなんだろう?

そんなわけで、Xの不寛容な投稿や理不尽な物言いが増えた気がして、僕は見る頻度が減っています。
自分の投稿にも前より気を使うことが増えて(そんな人達にフォローされてないとは思ってはいるが)個人アカウントの投稿頻度もかなり減りました。
要は個人的に前より面白くなくなったのでしょう。

ここまで書いていてなぜ過激で不寛容なコンテツのほうが人気が出るのか気になってきました。
「面白い」ってなんだろう?
今まで一緒くたにしてきたが、何種類かあるかもしれない。
ワンピースをみて面白いと、他人の炎上を見ることや双方向的にそういった炎上や誹謗中傷に参加できる、匿名で誰かのことをおもちゃにすることの面白さは違うのではないだろうか。
するとこれらは共存してしまうのではないか。
夏目友人帳をみて涙し、面白いと言いながら心が温まったあと、SNSで誰かを傷つける発言が平然とできてしまうのでは…?

ここまで書いていてスッキリするどこか更に怖くなってきた…。

人の心のメカニズムがわかればこういった問題にもアプローチできるのだろうか?それともコミュニケーションに新しい選択肢が必要?
何かしら大きな変化を生み出すにはどうしたらいいのだろう。

未来でもこんなことで傷つく人がいないためにできることを考えたいです。

1回目のエッセイから気が重たくなる話をして幸先が悪いような気がします、第2回のエッセイは投稿できるのでしょうか。

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