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キャンプとは、迷わない明白な暮らし。

キャンプが楽しい理由はいくつもあるのだけれど、ひとつには、選択肢が限られるということがある。

富士山の麓の広大な草原でも、秩父の山奥の川を望む深い森でも、家から最も離れた野営の場において、やることは自ずと限られる。

食うか飲むか、目の前の自然に身を委ねるか、だけ。

逆に言えば、せっかく何日も前から大変な準備をして日常の外側にある自然の中に身を置いたというのに、けっきょくあんまりキャンプを楽しめなかったなあ、という人は、それは余計なことをやっちまってるに違いないのである。

幼い子どもたちを楽しませようとあれこれ工夫したり、キャンプを通じて協調性を学ばせようと無理やりテント設営なんかを手伝わせたり、インスタ映えのために何枚も写真を撮ったり、そういう、ふだんの生活の延長線上で動いていては、キャンプに来ている意味がない。

キャンプの心地良さは、日常で僕らをがんじがらめにする様々な〈迷い〉から解放されることにある。

食事のメニューは買い出しの際に決めてあるし、誰かと会う約束もないし、テレビを見るかネットを徘徊するか自慰でもするか、なんてくだらないことに思考を割いて脳を疲弊させる必要もない。

迷うとしたら、ビールを飲むかワインを飲むか、そろそろ炭火をおこそうか、もう少しハンモックに揺れていようか、くらいのものである。

ツイッターで、フジロック・フェスに出かけた人が「次になにを聴くか、次になにを食うか(飲むか)だけしか考える必要がないので最高だ」と書いていたが、まさにそういうことで。迷わない、というのは明白な幸福のひとつなのである。

では、キャンプというのはよだれを垂らして猫や老人のようにひたすら優雅にハンモックに揺られていればいいのかというと、そんなことは決してない。むしろ、日常よりも忙しい。

なにしろ、食う寝る遊ぶという生活のすべて、ふだんなら家の快適なベッドとか街のラーメン屋とかスマホとかコンビニとかでまかなっていた暮らしの便利なあれこれを、自分で用意しなければならないのだ。

子どもたちが高原や河原で遊んでいる間に、テントを設営し、BBQグリルを用意し、テーブルやらチェアやらツーバーナーやらを組み立てたり設置したりしているうちに二時間も三時間も経っている。剥きだしの自然の下で人間らしいまともな生活を営むためには、それこそ膨大な準備と労働が必要になる。

そういったふだんなら面倒な暮らしのあれこれが、キャンプだとなんだかやたらと楽しく感じられるのは、他に選択肢がないからだろう。

これから何をしようかな? なんて迷いはない。

暮らしを暮らす、だけだ。

そこには、僕らが忘れてしまった、不自由な自由がある。

食事を用意して、食べ終わったら片づけをして、すこし休んで、たまに遊んで、寝床を用意して、風呂に入って、また食事を用意して、片づけて、という、僕らが便利な道具に囲まれた生活の中で忘れてしまった原始的な暮らしの連続。キャンプというのは、そういうものであり、それがなぜかとても心地よく、気持ちが研ぎ澄まされていく。

だから言うまでもなく、いちばんのタブーはスマホだ。

スマホを使うくらいなら、キャンプなんて来なけりゃいい。

遠い他人の動向が気になってSNSを覗くくらいなら、いつもの日常の内側にいればいい。

鬱陶しい社会から断絶するために面倒な野外の暮らしをしにやってきているのだから、スマホなんて長瀞の岩畳から荒川に投げこんじまえばいいのだ。

なんて思ったりもするのだけれど、じつのところ、けっきょく僕だってハンモックに揺られながら、インスタ映えする写真を吟味したり、明日は何しようかしらなんてあれこれ迷ったりすることもある。

でもね、やっぱりだんだんと、時間が経つにつれて着実に、いつもの日常から、心が剥がされていくんだ。

暑かったり涼しかったり、心地よかったりしんどかったり、世界や自分の様相がくっきりとわかる自然の中に身を置いていると、ふだん頭で考えている余計なことがさらさらと流れていく。

気づいたら、本当に大切な何か、自分の真ん中に一本通っている芯のようなものだけが、残る。

何もしなくても、考えることをやめて、感じるようになっていく。

僕は最近そういう風に心が静まって落ちついていくさまを、〈外への渇望から内なる衝動へ〉と呼んでいるんだけどね、憑きものが落ちるみたいな、他に代えられない気持ちよさが、たしかにあるんだ。

そして三日目くらいになって、自分の〈内なる衝動〉、つまり、この人生において僕という人間は何をして生きていきたいのか、僕にとって大切なものは何なのか、というようなものがわりとクリアに見えてくる頃、今度はせっせとテントやらグリルやらを片づけて、また日常へ還っていくのである。

キャンプから帰ると、家が眩しいよ。日常に堕落した自分の部屋が輝いて見える。いつもの生活が、なんて豊かに恵まれているのだと、恥ずかしいくらいに感極まることもある。

そういう意味では、キャンプというのは、二泊三日くらいがちょうどいいのかもしれない。

オートバイで北海道をまわったときは二週間くらいかけたし、独り旅は長めに出ることが多いけれど、あんまり長く出ちゃうと、心が還ってこられなくなる恐れがある。たまに、還ってこないでそのまんま、北海道とかニュージーランドとかに移住しちゃう人がいるよね。

そういえば僕だって、海に往く人から、海に還る人になりたくて、茅ヶ崎に越してきたんだった。

エアコンとスマホと冷蔵庫のある快適な暮らしに飽いたら、僕はキャンプに出かける。自由ってときたま不自由だから、あえて不便を選んでみる自由。

日常の外側でしばし自分の内側を覗いて、人生や世界を俯瞰して、また日常に戻る。その繰り返しが、僕をバランスしてくれる。

大型台風がきている今日なんかは、エアコンの効いた書斎でアイスクリームを舐めながら、映画でも観るのが至福なんだけどなあ。

さて来月はどこいこうか。


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