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怒りの底には哀しみが眠っていて、哀しみの地面には愛が埋まっている。

つきあいが長くなると、なかなか夫婦喧嘩もしなくなってくる。

お互いの欠けているところ、苦手なところ、ヘタなところといったマイナスを理解しているし、理解した上で好きで一緒にいるのだし、自分にもそれ以上に欠けているところがあると痛感しているから、ちょっと腹を立てたからといっていちいちそれを相手にぶつけるのが無駄に思えるからだ。

相手を責めず、かといって自分も責めず、まあ、しょうがないよな、育ってきた環境が違うんだし、セロリが好きだったりするよな、なんて大人らしい諦めをため息と共に呑みこむのである。

というのはまあ理屈の話で、実際は感情のところがなかなか大人になれなくて、いつまでも怒りをもてあまして、子どもみたいにふてくされたりもする。

僕と同い年でだいたい同じように生きてきたような友人夫婦が、いまだになんでもかんでも気持ちをぶつけ合って夫婦喧嘩をしている姿を見ると、うらやましく思ったりもする。どっちにしろ僕らはみんな子どもみたいだな、とは思うのだけれど。

何かに腹を立てたとき、僕は何が哀しいのだろうかと考えることにしている。

いつだって、怒りの底には哀しみが眠っているからだ。

妻や夫に腹を立てるとき、不誠実な友人やモラルを守らない隣人に苛立つとき、不意の天災に憤るとき、本当は、哀しい、のだ。哀しくて哀しくてやりきれないから、どうにかそれを追いやろうとして、怒りという感情を持ちだしているにすぎない。

喜怒哀楽の中で〈哀しみ〉というのが、じつはいちばん受け容れがたい感情なのかもしれない。怒ったり笑ったりはすんなりできても、「僕は今、哀しいんです」というのは、なかなか大の大人が言うに憚られる。

けれど、怒れる者は、哀しむ者なのだ。

そして哀しみはいつだって、愛情から派生している。何かを、誰かを、愛するあまりに、大切にしたいがために、哀しむのだ。

だから、哀しみは哀しみのままに、生きていきたいと思う。

怒りの底には哀しみが眠っていて、哀しみの地面には愛が埋まっているのだから。

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