見出し画像

パーソナライズと分断

「自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならない」

夏目漱石

個人主義とは決して、利己的な意味ではないらしい。

しかし、個人の都合や嗜好を優先する風潮は感じる。

あるカフェで二人組の男性が食事をしていた。

二、三会話をした後、同じタイミングでスマホを取り出し、同じタイミングでゲームをやりだした(よく見ていた訳ではないが、違うゲームだったように思う)

特に会話はなかった。各々、自分の世界を過ごしているようだった。

これが個人主義的と言えるのかは微妙だが、かなりパーソナライズされた時間ではあったように思う。

個人主義上(特に資本主義上)所有は認められている。

スマホを所有しているのだから、それをどう使おうが確かにその所有者の都合だ。

「所有」は進む

資源を使うために資源を所有することは難しいが、機能を使うためであれば、モノの所有は加速している。

「自分のモノ」であることは、いつでも自分の都合で使えると言うことだ。

テレビがわかりやすい例かと思う。

僕の世代では、テレビが一家に一台から、一部屋に一台と言われるようになってきた時代だった。

さらに遡ると一家に一台ですらない。

街頭なり映画館なり、公共のもの(もしくは誰かのもの)をみんなで見ていた。そこには一つのものを「みんなで使う」と言う行為があった。

ところが現代は、「自分のモノ」を自分の都合で使うことができる。

パーソナライズ

いつでもどこでも常に持ち運べて、どんなに細切れされた隙間時間でもすぐに使えるとても便利なモノまで生まれた。

これは時間的な都合すら超えて、個人の「嗜好」の都合にまで合わせてくれる究極のパーソナルツールだ。

きっとこのブログも、そのパーソナルツールで読んでいることだろう。

究極に「パーソナライズ」された現代では、「みんなで使う」つまり、「協調する」と言う行為がいらなくなりつつある。少なくとも協調する機会は減るだろう。

パーソナライズされた個人主義の生き方の中で、どのように他者と関わればいいのだろうか?

どのような理由で他者と関わればいいのだろうか?

そもそも他者を許容できるのだろうか?

パーソナライズと言う分断は、始まっているのだろう。

パーソナライズと言う新しい個人主義が受け入れられるように、分断もまた、受け入れられているのかもしれない。

そんな中、逆に結束する必要性があるのだろうか?
パーソナライズの風潮の中、コミュニティを作る必要はあるのだろうか?

最後に、私たちがもう一度結束する必要性について考えてみたいと思う。

頂いたサポートは仮想の学校運営のために使わせて頂きます。 ご支援、ご協力のほどよろしくお願いします。