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生活圏の中の”関わる”機会

最近はコンビニで買い物をしても、必要最低限の返事しかしないことが多い。

セルフレジを利用した時は、一切言葉を発すことなく店を出た。

さすがにコンビニで言葉を発しなかったことは、初めてかもしれない。

コンビニがセルフレジを導入するメリットはいくつかあるだろう。

作業量や人件費が抑えられるのだろうし、

買う人にとってもかなり素早く買い物が終わる。

「買う」という目的を効率よく行うためには、会話的なやりとりは必要なかった。合理的判断。
これは普段生活する範囲で誰かと関わることが一つ減ったとも言える。

しかしそう言いつつも、買い物も外食も、目的のためには関わりは最低限である方が楽に感じるようになってきてしまった。

にも関わらず誰かの存在を欲する時があり、インスタントな関わりをネットの中に求めてしまう。

これは僕個人の中にある矛盾だが、同じような矛盾を抱えている人はどれくらいいるのだろう。

生活の中の関わり

かつて「地域」には、「生活」も「関わり」も共存していた。

いまや「生活」という目的は技術によって合理的に処理され、それに付随した「関わり」は省かれた。
そして「関わり」もまた、技術によって合理的に処理される。

では地域に関わりは必要ないのだろうか。

地域というより、自分が生活する場、生活圏と言った方がいいかもしれない。

前回の記事は、それに対する寂しさだったように思う。

自分が住んでいる生活圏に関わりを作れないことで、自分がここに住んで、ここに生きていることが分からなくなってしまいそうだった。

もしネットの中に関わりを作れるのであれば、ネットの中に自分が生きていることを感じさせてくれるのかもしれない。

しかし、ふと立ち止まって周りを見た時。

みな「知らない人」だった。

そして周りにとって自分も「知らない人」だった。

そこに不安を感じていたのだろう。

実際、そこにニーズを抱えている人は増えてきているのではないだろうか。

「住み開き」という、他者との関わり方

「住み開き」というムーブメントもその一つの現れだと思う。

生活圏に関わりがないのであれば、究極の生活圏である「家」を交流に使う。それは他者とのひとつの「関わり方」だ。

そこに関わりを作れるのであれば、自分も相手も「知って」もらえる。

それによって不安が解消できることもあるだろう。

シェアハウスの人気も、そことつながるニーズがあるのかもしれない。

しかしそうなった時に、自分のプライベートはどうなるのだろうか。

ここは先ほどの関わりへの欲求と矛盾してしまうのだが、

自分一人の時間への欲求も、確かにある。

そもそもなぜ、そのような欲求が両立するのだろう。

なぜ関わりを欲し、なぜ関わりを省くのか?

これの矛盾は永らく、自分個人のテーマでもあった。

次に、個人主義について考えてみよう。

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