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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 11

漫画界に押し寄せた「円本ブーム」の余波

 田河水泡が漫画家としてデビューした当時、出版業界は空前の「円本ブーム」に湧いていた。
 円本とは、1冊1円で予約を受け付け、毎月1回配本するという形式で販売された書籍のことだ。「1冊1円」だから「円本」という呼び名がついたわけである。
 もともとは1926(大正15)年に改造社が『現代日本文学全集』を企画したことに端を発するが、関東大震災(1923年)で壊滅的な打撃を受けた出版業界と印刷業界にとって「円本」は起死回生のアイデアであった。

 当時の一般書籍の相場は、安くとも2円以上。そこに改造社の『現代日本文学全集』は、1冊500ページ前後の大ボリュームで、箱入りに布製の表紙といった豪華な装丁であり、それでいて1冊1円と安価であったから、注文が殺到したのもうなづける。企画を発表した当初は全38巻を予定し、これに20万人以上の会員が集まり、改造社の経営は一気に好転した。

 改造社の成功を受け、他の出版社も全集を刊行するようになり、新潮社『世界文学全集』や平凡社『現代大衆文学全集』、春陽堂『明治大正文学全集』など、全集の円本が続々とリリースされていった。円本ブームは1926(大正15)年から1930(昭和5)年頃まで続く。
 なお、岩波書店は、このブームに乗ることなく、対抗する形で文庫シリーズの刊行をはじめた。岩波文庫の巻末には、現在も「読書子に寄す」と題する創業者・岩波茂雄の言葉のなかで、「円本ブーム」への苦言(近時大量生産予約出版の流行を見る〜)が呈されている。

岩波文庫収録の「読書子に寄す」岩波茂雄。
日付は「円本ブーム」最中の昭和二年七月付。

 この「円本ブーム」は、ただ書籍が爆発的に売れたという以上に、「それまで本を買うことができなかった層を読者に変えた」点が大きい。ブームによって、出版市場が拡張されたわけだ。

 また、「円本ブーム」は作家たちには多額の印税収入をもたらした。新規に作品を書き下ろすわけではなく、既存の作品を全集に再録し、それが爆発的に売れたおかげで、莫大な不労所得を得ることになったのである。
 暮らしぶりが豊かになった作家を「円本成金」と揶揄する言葉まで生まれたほどで、なかには海外旅行に出た者もいる。

 円本ブームの後期になると、めぼしい作家の全集はあらかた出尽くし、やがて文学にとどまらず、美術書や経済書、法学書などの分野にも広がりを見せていく。そのなかに漫画もあった。このようにして、文学全集の円本ブームより一足遅れるかたちで、漫画にも全集化の波が押し寄せる。
 その先鞭をつけたのが、岡本一平の『一平全集』(先進社)であった。

岡本一平の漫画漫文スタイル

 ここで岡本一平という漫画家について触れておきたい。
 岡本一平は田河水泡よりさらに一世代前の作家である。1886(明治19)年生まれの一平は、1912(大正元)年8月1日に朝日新聞社に入社し、紙面にて漫画を描くようになる。

 一平の描く作品は「漫画漫文」スタイルと呼ばれた。漫画に軽妙な文章をつけたもので、それは批評や風刺というよりは、彼個人の作家性が打ち出されたコラムのような性質を持つ。
 わかりやすい例として、「大阪朝日新聞」の1929(昭和4)年8月14日付の紙面に掲載された、第15回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)をを伝える漫画漫文を挙げておきたい。
 開催地の阪神甲子園球場には、この年からコンクリート製の東スタンドと西スタンドが増築されており、一平はそのスタンドについて次のように書いている。

ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ萬年雪ガアリサウダ。

『岡本一平 漫画漫文集』清水勲(岩波文庫)
『岡本一平 漫画漫文集』清水勲編(岩波文庫)

以来、現在に至るまで、甲子園球場のスタンドは「アルプススタンド」の愛称で親しまれている。

 話を一平が朝日新聞社に入社した1912(大正元)年に戻すと、当時の朝日新聞には夏目漱石が小説を連載していた。『彼岸過迄』(1912年1月〜4月)、『行人』(1912年12月〜1913年11月)、『こころ』(1914年4月〜8月)の、いわゆる「後期三部作」に取り掛かっている時期だ。
 漱石は一平を高く評価し、1914(大正3)年に一平の単行本『探訪画趣』(磯部甲陽堂)が刊行された際には「今の日本の漫画家にあなたのようなものは一人もないといっても誇張ではありますまい」との序文を寄せている。

 出版社は一平の単行本を刊行する際に「第二の漱石」のキャッチフレーズを用い、彼の知名度は「時の宰相の名を知らなくても一平の名前を知らない者はいない」とまで称された。いわば一平は、昭和初期の「国民的作家」とも言うべき存在だったのだ。だから円本で「全集」を出す際に、一平に白羽の矢が立ったのは当然の成り行きといえた。

 1929(昭和4)年、全15巻の予定で購読者を募集した『一平全集』(先進社)は、5万セットを超える予約が殺到した。
 すると、一平のもとに多額の印税が振り込まれる。一平は家族とともに海外旅行に出かけ、さらに息子をパリへと留学させるのだが、その息子というのがのちに世界的な芸術家として名を成す岡本太郎である。

売れに売れた田河水泡の初単行本

 『一平全集』の刊行が開始した翌年の1930(昭和5)年には、北澤楽天の『楽天全集』(アトリエ社)も刊行された。
 こうした時流を受けて、同年には田河水泡にとって初の単行本『漫画の罐詰』が大日本雄辯会講談社から刊行される運びとなった。それまでに田河が同社のさまざまな雑誌で描いてきた作品をオムニバス形式にまとめたもので、漫画書籍としては初めてオフセット印刷で製作された。

昭和44年に復刊された『漫画の罐詰』田河水泡(講談社)

 『漫画の罐詰』の価格は1冊1円50銭ながら、約10万部を売り上げた。そして田河のもとには、1万円という印税が入ったという。
 『漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 2』でも触れたように、1930(昭和5)年の大卒初任給は50円(銀行員)。よく田河水泡は「『のらくろ』で世に出た」と書かれることが多いが、実のところ、『のらくろ』連載開始前にすでに漫画でひと財産を築いていたのである。

 商業的な成功による精神的なゆとりがあればこそ「借りて読む子供達の為の味方になれるものを描こうと思った」と発想でき、そこから『のらくろ』が生まれたようにも思える。

同時代人としての「大庭葉蔵」

 ちなみに、この時代の漫画家を描いた小説が存在する。それは太宰治『人間失格』だ。「第三の手記」に「自分は、わずかに、粗悪な雑誌の、無名の下手な漫画家になる事が出来ただけでした」とあるように、主人公の大庭葉蔵は漫画家になる。

 無口で、笑わず、毎日々々、シゲ子のおもりをしながら、「キンタさんとオタさんの冒険」やら、またノンキなトウサンの歴然たる亜流の「ノンキ和尚」やら、また、「セッカチピンチャン」という自分ながらわけのわからぬヤケクソの題の連載漫画やらを、各社の御注文(ぽつりぽつり、シヅ子の社の他からも注文が来るようになっていましたが、すべてそれは、シヅ子の社よりも、もっと下品な謂わば三流出版社からの注文ばかりでした)に応じ、実に実に陰鬱な気持で、のろのろと、(自分の画の運筆は、非常におそいほうでした)いまはただ、酒代がほしいばかりに画いて、そうして、シヅ子が社から帰るとそれと交代にぷいと外へ出て、高円寺の駅近くの屋台やスタンド・バアで安くて強い酒を飲み、少し陽気になってアパートへ帰り、(略)

『人間失格』太宰治(新潮文庫)

 『人間失格』は1948(昭和23)年に書かれたが、「あとがき」(という作中の最後のパート)には「この手記には、どうやら、昭和五、六、七年、あの頃の東京の風景がおもに写されているように思われるが、(略)」とあるように、作中の時代設定は1930(昭和5)〜1932(昭和7)年。ちょうど田河水疱が『漫画の罐詰』でひと財産を築き、『のらくろ二等卒』の連載を開始する時期と符合する。
 なお、文中に出てくる「ノンキなトウサン」とは、1923(大正12)年に「夕刊報知新聞」で連載していた麻生豊の4コマ漫画『ノンキナトウサン』(それ以前の版は題字が漢字)のことと思われる。掲載誌を変えながらも続編は継続され、1930(昭和5)年からは「サンデー毎日」で6コマ漫画となっていた。
 この時代の最先端の「少年倶楽部」に載っているような漫画を模倣するのではなく、すでに評価の定まった作品(『ノンキナトウサン』)の「歴然たる亜流」を「三流出版社」の雑誌に描いているあたりからも、葉蔵のうらぶれた境遇が感じられる。

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