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漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 3

“漫画の神様”も心酔した田河水泡

 手塚治虫が生まれたのは1928(昭和3)年である。
 手塚は最初期の『のらくろ』フィーバー(昭和7年)の直撃世代ではないものの、その直下の世代の肌感覚を次のように語っている。

田河水泡という名前は、当時の子どもたちにとって、おそらく現在のウォルト・ディズニーと同じくらい神秘的なひびきをもって迎えられたにちがいない。

『手塚治虫漫画全集389 別巻7 手塚治虫エッセイ集3』講談社

 『のらくろ』ブームに“途中乗車”した手塚は、田河水泡の既刊や『のらくろ』シリーズを後追いで読み漁っていった。

少年時代、何百冊もマンガ本を買い揃え、特に田河さんの作品を熱心に模写し練習したぼくは、ぼくなりに田河タッチの魅力の秘密のようなものを探り得たつもりでいるし、それだけに田河水泡作品となると、ちょっとうるさい自称“権威”のつもりでいるのである。

『手塚治虫漫画全集389 別巻7 手塚治虫エッセイ集3』講談社

 また、雑誌「国際写真情報」(国際情報社)の1967(昭和42)年8月号での田河水泡との対談「のらくろとアトム」では、以下のように語っている。

手塚 (略)私の顔つきにもよるんだけれども、私はおもしろいことに、頭髪が天然パーマでして両側が立つんです。風呂からあがって毛をかわかすと、耳の上の両側が立っちゃうんですよ、それでのらくろに似ているなんていわれたことがあります。
田河 アトムもそうだね。
手塚 ええ、そこで潜在意識みたいな形でのらくろの耳の立ってる絵があって、それがどうもアトムのヒントになったんじゃないかと思います。
司会 頭の毛が立っているアトム、なるほど。
手塚 あれは髪の毛なんです。のらくろは耳ですけれども。
田河 自分の髪の毛が立つからというんで、アトムに自分が出てるというのはおもしろいですね。
手塚 のらくろは、ひじょうに特徴のあるデフォルメといえますね。その当時、デフォルメのすぐれたマンガがなかったせいもあって、子どもにひじょうに印象に残ったんですね。(後略)

『手塚治虫漫画全集388 別巻6 手塚治虫対談集1』講談社

 「のらくろ」と鉄腕アトムのフォルムが似ていると、手塚自身が言及している点は興味深い。少年時代の手塚にとって、田河水泡はまさしくアイドル的な存在であり、自身の漫画家としてのルーツに、田河水泡と『のらくろ』の影響があったことを隠していない。

 なお、上記の対談よりも早い時期に、作中で両者の類似性を指摘している小説がある。それが広瀬正『マイナス・ゼロ』だ。

『マイナス・ゼロ』広瀬正(集英社文庫)

 『マイナス・ゼロ』は、1965(昭和40)年にSF同人誌『宇宙塵』に掲載された長編SF小説で、タイムトラベルが題材の傑作。本作での“現代”は1963(昭和38)年。主人公の浜田俊夫は1932(昭和7)年にタイムスリップし、鳶の棟梁の家に居候することになり、棟梁の息子タカシの描いた絵(のらくろ)を『鉄腕アトム』と見間違えるシーンがある。

 俊夫はハッとした。そのクレヨン画が鉄腕アトムではないかと思ったのである。だが、よく見ると、そうではないようだった。とんがった黒い耳や、目のあたりは、アトムに似ているが、口もとがぜんぜん違う。第一、鉄腕アトムなら、首から星のまーくのついた札なんかさげているはずはない。これは「のらくろ」だ。俊夫は、手にした少年倶楽部を開いて、それが連載中の田河水泡作のマンガ「のらくろ上等兵」の主人公であることを確認した。

『マイナス・ゼロ』広瀬正(集英社文庫)

 作者の広瀬正は1924(大正13)年生まれ。『のらくろ』直撃世代の広瀬にとって、「昭和7年」の時代性をあらわす小道具に『のらくろ』は欠かせなかったようだ。

また、のちに勲四等旭日小綬章を受章する漫画家・杉浦幸雄は『のらくろ50年記念アルバム ぼくののらくろ』(講談社)のなかでの座談会で、次のように回顧している。

杉浦 戦後の日本のね、青春はさ、「美空ひばり」と「長嶋茂雄」だといわれたけれども、「のらくろ」は戦前の青春だね。田河水泡さんはね、まさに少年のころのよき青春なんだな。

『のらくろ50年記念アルバム ぼくののらくろ』(講談社)
『のらくろ50年記念アルバム ぼくののらくろ』(講談社)

この言葉からも、戦前を知る者にとって『のらくろ』がいかに特別な存在だったのかをうかがい知ることができる。
  

小林秀雄に語った『のらくろ』の真実

 後世への影響力という点では、田河水泡の門下生にも注目したい。
 『猿飛佐助』の杉浦茂、『あんみつ姫』の倉金章介などは、田河の弟子であった。さらには漫画家で初めて国民栄誉賞を受賞する『サザエさん』の長谷川町子も、田河の家に住み込みで修業した内弟子だ。
 戦後にも田河門下からは『寺島町奇譚』の滝田ゆうなどが出ており、田河水泡は一個人として大ヒット作家であったばかりか、後進を育成して業界の発展にも大きく寄与している。
 しかし、それほど漫画業界に大きな足跡を残した田河も、はじめから漫画家を志していたわけではなかった。職業漫画家となる以前、田河は落語作家だったのである。
 落語作家……というと、あまり耳馴染みのない肩書きだが、田河水泡は「高澤路亭たかざわろてい」の筆名で、雑誌に新作落語を書いていた経歴を持つ。彼の書いた「猫と金魚」は、現在でも高座にかけられる機会の多い噺だ。

 田河水泡とは、どのような人物なのか。
 どのようにして漫画家になったのか。
 そして「落語作家」という経歴を持つ彼の漫画作品は、落語からどのような影響を受けているのか。
 それらを紐解く鍵は『のらくろ』にある。

小林秀雄の『考えるヒント』には、次のようなセリフがある。

のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ。

『考えるヒント』小林秀雄(文春文庫)

 田河水泡の妻は小林秀雄の妹・高見澤潤子(本名は小林冨士子)なので、小林秀雄と田河水泡は義兄弟ということになる。若き日の小林秀雄は、中原中也、女優・長谷川泰子と三角関係にあり、中原中也の恋人であった長谷川泰子と小林秀雄は駆け落ちし、関西で同棲生活をしていた。
 この当時、妹の潤子は兄・小林秀雄と手紙のやりとりしていた。小林からは、以下のような頼みがあったと記されている。

洋服がほしいんだがな。高見沢さんに、中野の家の留守をうかがって、とってきてもらえないか。

『兄小林秀雄との対話』高見沢潤子(講談社現代新書)

 このあと小林秀雄は奈良へ移り、志賀直哉と交流する。1928(昭和3)年9月に田河水泡と高見澤潤子は結婚するが、7月には結婚を祝う手紙が届いたというから、田河水泡と小林秀雄の付き合いはかなり古い。
 小林秀雄は長谷川泰子との同棲生活を解消して帰京すると、田河宅の隣に引っ越してきて、田河夫妻との近所付き合いがはじまる。
 1929(昭和4)年に小林が『様々なる意匠』で雑誌「改造」(改造社)の懸賞評論に入選したときは、小林、その母、田河夫妻の4人で銀座の料理屋で食事会を開いたという。高見澤順子は、その帰りに小林秀雄が資生堂で香水を買ってくれたと記憶している。この頃の田河はすでに漫画家となっているが、まだ『のらくろ』は手がけていない。

 田河と小林は、たびたび会っては酒を呑みながら馬鹿話をしていた。いつも洒落や冗談を飛ばしながら、明るく仕事をしている義弟・田河を、小林はうらやましく思っていたが、ふとした折に田河が先ほどの言葉をこぼしたのである。
 田河の言った「俺の事」とは、何か。
 すでに見たように、「のらくろ」は天涯孤独で世間に疎まれていたキャラクターである。そんな「のらくろ」に田河はなぜ自分を重ね合わせたのか。
 次頁から、田河水泡の来し方を追っていきたい。

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