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低学歴介護職が起業してデイサービスをつくり、大学院でMBAを取った話

就職から起業前夜まで

介護保険法が施行される2000年4月の1ヶ月前、僕は特別養護老人ホームに介護職員として就職した。当時21才だった。

小・中はまずまずの成績だったものの高校で落ちこぼれ、卒業後は願書さえ出せば受かるような福岡県のデザイン系専門学校に進学し、勉学そっちのけで毎日遊んでいた。

そんな体たらくではもちろん就職することもできず、卒業後は居酒屋のアルバイトでなんとか食い繋いでいた。

しかしアルバイトを始めて9ヶ月が経った頃、突然のリストラにあった。業績が伸び悩び、居酒屋を複数店舗経営する社長も苦渋の決断をしたんだと思う。

アルバイトだけでなく数名の社員も解雇され、いよいよ路頭に迷いそうになった頃、父親から電話があり、鹿児島に帰ってきて特別養護老人ホームの就職試験を受けるよう言われた。

この電話がかかったきた時点で、父親は僕の履歴書をご丁寧に代筆し、すでに提出済みだった。地元に帰る気などさらさらなかったからだいぶ反発はしたものの、他に働き口もなかったため渋々試験を受けることにした。

結果は合格。田舎なのでなにか口利きがあったんだろう。

介護のカの字も知らないどころか、僕は年配の人が苦手だった。介護という仕事を想像してもどんなものなのか1ミリもイメージが湧かなかった。

かなり悩んだが、数ヶ月勤めたらまた福岡に戻ってこようと思い、特別養護老人ホームに就職することにした。そして2000年3月から特別養護老人ホームの介護職員として、僕のキャリアは始まった。

学校で学んだわけでもないし、資格もなければ経験もなく、何よりまったくやる気の湧かない就職だった。

特養のオープンは4月だったので、就職直後の1ヶ月間は他施設での研修期間だった。そこで食事介助、おむつ交換、入浴介助などを一通り学んだ。研修先の施設職員さんについて始めてオムツ交換に行った時は血液混じりの軟便に遭遇し、居室にいることさえできずに部屋を出てしまい、この仕事は続けられないと思った。

とはいえすぐに逃げ出すのも格好がつかないので、嫌々ながらも出勤は続けた。

4月に入り、特養がオープンして入所者さんが毎日4〜5人ずつ入所してきた。50床+ショートステイ12床の回廊型の従来型特養だったが、すぐに満室になり忙しくなっていった。

仕事自体はおもしろくなかったものの、仲の良い後輩がいたおかげで職場は悪くなかった。ほぼすべての職員が介護未経験者のオープンスタッフだったので、フラットな人間関係があったことも居心地をよくしていた。それでもそう長くは働かないだろうなと考えていた。

しかし同じ職場に彼女ができたこともあって(1年半で別れたけど)、気がつけば介護福祉士の受験資格(3年間の実務経験)を得るところまで続いていた。

その頃は施設自体もほとんど研修をしないところだったし自ら学ぶということもなかったので、介護職としてのスキルはまったく磨かれていなかった。

とにかく素早く仕事を終わらせて、定時に帰ってそのままパチンコ屋に行くことが仕事の目標だった。スピード重視なので自分のペースで手早く介助を行い、いま思えば自立支援のかけらもなかった。

4年目に入り、せっかく受験資格も満たしているということで介護福祉士を受験することにした。ここで初めて介護の勉強をした。当時25才。

先に筆記試験があり、筆記試験を突破すると実技試験だったので、まずは参考書を読んで筆記試験に備えた。無事に一発で突破し、今度は実技試験に備えてビデオを見たり終業後に同僚と勉強会をした。

取れるもんなら取ってみるか程度の受験動機だったが、意外と介護の勉強がおもしろかった。知らないことだらけで、奥が深い。そして、無勉強のまま漫然と働いてきた自分の伸び代が無限大に広がっていると思った。

介護の仕事をおもしろく感じ始めたのはこのあたりからだった。従来型の特養だったが、居室を3つのエリアに区分してグループケアをというものをやっていた。ちょうどユニット型特養が登場した頃で、僕はグループのリーダーをやっていた。

リーダーになった理由は、単なる輪番制だったからで、特に僕が優れていたからではなかった。それでも立場が変わると意識も変わった。この頃になると、介護の仕事のおもしろさ、難しさ、そしてやりがいを感じるようになっていた。

さらに2年経ち、今度はケアマネジャーの受験資格を得た。これも一発合格し(試験は得意らしい)、ケアマネに合格した3年後には、特養の施設ケアマネをすることになった。当時29才。

特養のケアマネというのはだいたい施設に1人しかおらず、同じポジションの人がいない。つまり相談相手がいない。そして、生活相談員よりは下で、介護職員よりは上というような微妙なポジションだった。中間管理職的ではありながら権限は何も持っていないという立ち位置だった。

介護職であれば、自分が介助スキルをあげると、それはそのまま利用者さんの利益になる。例えば自分が正しい移乗介助を身につけることで、利用者さんは痛くなかったり、怖くなかったり、自分の力を使えたりするからだ。

しかしケアマネジャーは計画は立てるが直接介助はしない。現場のスタッフ達に計画通りに動いてもらうには“マネジメント”という役割をこなす必要があった。

人を動かす力には、公的な力、個人の力、関係性の力が働くが、このうち権限という公的な力を持たないので、自分が学んでスキルを身につけることで計画の説得力をあげるということに熱心になっていた。

これは熱心に勉強して自信がついた人に往々にしてあることだと思うが、自分の正義感や正しさを振りかざして周りを攻撃してしまい、結果として誰もいうことを聞いてくれなくなるということも体験した。

その時に出会ったのが『人を伸ばす力』というアメリカの心理学者が書いた本だった。思えば、これをきっかけに様々なビジネス本を読むようになったと思う。名著なのでおすすめ。

施設ケアマネとしての勤務も4年に差し掛かった頃には、よい介護をするためには、現場職員のスキルアップだけではなく、人員の配置や育成・評価など仕組みの部分も重要だと思うようになっていた。そのためには仕組みを作る側のポジションに就くことが必要だとも思っていた。

仕組みを変えるのはなかなか難しい。当時の上司や施設長に上申することもあったが、なかなか変えることはできない。となると、自分が施設長になるしかないわけだが、それは実現可能なのかと考えるようになり、その答えは否だった。

他に下心がなかったわけでもないが、自分が理想とするケアをするには自分でそういう場を作るしかないと考え、13年間お世話になった職場に別れを告げ、起業という道を選んだ。当時34才。

起業から経営の壁まで

特別養護老人ホームを退職してから起業するまでも色々あったが、2013年5月に民家改修型のデイサービスを開設した。自分を含めて社員5名の零細企業だったが、やる気となぜか自信にも満ち溢れていた。

しかし思うように利用が伸びず資金ショートしそうになったり、社員の揉め事に頭を悩ませたり、経営者なら誰もが経験するようなことを多分に漏れず経験しつつも、なんとか生き延びていた。

デイサービスをオープンして9か月後に訪問看護、さらに3か月後には居宅介護支援をオープンさせた。

訪問看護を始めた理由は、地域に訪問看護ステーションがひとつもなかったため収益性と地域貢献の両方が見込めることと、管理者を任せられる人材が見つかったからだった。居宅介護支援を始めた理由はデイサービスの稼働率を上げるためだった。このあたりで社員が10名を超えてきた。

そして訪問看護ステーションをオープンして3年後、会社は倒産の危機を迎えた。理由は、訪問看護管理者の独立。

詳しく書けないことも多いので割愛するが、社員も利用者も大半を失い、訪問看護ステーションの継続どころかデイサービスや居宅まで共倒れするほどの危機に陥った。ヒト・カネ・モノの全てがうまくいっていなかった。

あちこち奔走し、頭を下げ、ひたすら行動しまくってなんとか危機は乗り越えたものの、たかが十数名の会社ですらこんな危機にさらしてしまうような経営者では、会社の未来は明るくないなと我ながら思った。

自分はなんでこの会社を始めたんだっけ?
自分はこの会社をどうしていきたいんだろう?

この問いを考え続け、3カ月ほど悩んだ末に、現在の企業理念を作った。

『最期まで自分らしく生きる』

自分がこうありたいと心から思えることを企業理念にした。企業理念としては「最期まで自分らしく生きられる社会をつくる」とした。

それと同時に、こんな小さな会社のままで終わりたくないとも思った。もっと会社を成長させたいと思った。この時点で訪問入浴、離島での福祉事業が増え社員は30名を超えていた。経営の世界でよく言われる30の壁だ。

今までもたくさん本は読んできたし、経営者仲間に相談したり、セミナーに参加したり、コンサルを受けたりしていた。でもそれは困った時に課題解決してくれそうなものに手を出しているにすぎず、つまみ食いのような学びでは全体像が見えてこないと思った。

そこで、経営を体系的に学ぶ必要があると考え、MBAを取るという目標が生まれた。MBAというのは、ビジネススクールと呼ばれる経営大学院に2年間通い、無事に卒業することで得られる学位だ。日本語では経営学修士号という。

大学院に入学するまでも色んな葛藤はあったものの、2019年4月にグロービス経営大学院大学に入学した。当時40才。

仕事をしながらクラス、事前課題、復習、サポート、学事イベントをこなすのは大変だったが、人生で一番勉学に励んだと思う。グロービスでの学び、出会いは人生の転機であり財産になった。

卒業要件になっている試験を突破し、無事に所定単位を取得し、2021年3月に卒業することができた。

資格なし、経験なし、やる気なしと三拍子揃った底辺介護職員だった20年前からは考えられないが、介護福祉士、介護支援専門員に加え、経営学修士(MBAホルダー)というタグを獲得した。

資格や学位の取得だけではなく心の変化もあった。
長くは続かないと思っていたこの仕事だったが、いつの間にか、自分は介護業界で生きていくと決めている。

10年後の自分が楽しみで仕方ない

現在社員は50名ほどになり、小規模多機能など事業も増えて、今後さらに事業展開していきたいし、介護という枠の中で介護保険サービス以外の事業もやっていきたい。

大変なことも色々あったが、弊社の開業から現在までの平均離職率は4.5%だ。業界平均より10ポイント以上低い。うまくいっているものもある。

他の記事でも書いたが、学生だった10代の頃、自分がまさか介護職になっていようとは夢にも思っていなかった。

介護職として過ごした20代の頃は、30代で自分がまさか経営者になっているとは思わなかった。

そして経営者として歩き出した30代には、40才になってまさか自分が大学院生になっているとは思わなかった。

いま僕は43才。

今までを振り返ってみると、50代の自分がどうなっているのか想像もつかない。もちろん会社としてのビジョンや目標はあるし、介護業界には身を置いているものの、想像の枠外のことをしているんだと思う。

その分からないことを楽しみに思う。

人生というのは、自分で切り拓くこともあれば、災害のような目に遭うこともある。それでもなんとか乗り越えてきたし、そのたびに成長してきた自負がある。だから先の分からない人生にも希望を持つことができる。

成功は約束されていないが、成長は約束されている。
そして、人生の最大の喜びは成長することだと思う。

平均寿命まで生きるとすると、あと40年ほど人生を残している。まだ折り返し地点だ。今までを振り返ってみると、だいたい2年に1回くらい災難に遭う。それもほとんど身から出た錆だが、なんとかなってきた。これからもなんとかなるだろう。人生を楽しもうと思う。



介護サービスの会社を経営しながら、経営学を学ぶため大学院に通っています。起業前の13年間は特養で働いていました。介護現場と経営と経営学、時々雑感を書いています。記事は無料ですがサポートは大歓迎です(^^)/