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芽吹き

朝目を覚ますと、昨晩の土砂降りがまるで景色を洗い流したかのように、庭の木々から光を含んだ雫が垂れていた。カーテンを開けるといてもたってもいられず、外に足を運んだ。

昨日までの冬の気温とは打って変わって、穏やかで温かく、じんわりと身体を温められているのがわかった。時計を見ると11時を指していた。今日は少し足を延ばしてみよう。

家を出てすぐの坂を左に登り、ある程度歩くと広場がある。少し足を止めて、昔遊んだ光景を第三者から見守るように思いだしてみた。

変化球にしかならないゴムボールと、ガムテープでぐるぐるまきにして飛距離を伸ばすように加工されたプラスチックバットで、フェンスもない更地の広場で近くの友達と草野球をしていたこと。エアガンを持ちより、防護もしないで打ち合いをして泣かせたこと。時には面積の狭い芝生の上でだらだらとゲームをしたり、くだらない話に花を咲かせていたことなど、この記憶を遡るだけで一時間が過ぎてしまうほど、この赤土の広場には多くの記憶が染みついていた。

広場を後にし、小学校の通学路の入り口に差し掛かった。ここは車一台も通れないような幅の狭い道で、草木も生い茂っていた。ここを通るのはやめよう。

曲がりくねる坂道を上がると深い森に続く道がある。木々が日光を遮っているので夏の暑い日でも風が冷たく、部活帰りの火照った体を冷やしてくれるそんな道だ。

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少し歩くと苔が生い茂り、木漏れ日と昨晩の雨を含んで光り輝いていた。直接目には見えないが、春の芽吹きを感じた。

道の形も景色も木々の種類も何一つ変わらないのに、春の芽吹きはすぐそこにあるようだった。この場所をこんな風にまじまじと歩くのは、何年ぶりだろうか。その間に何回春が訪れたのだろうか。

この道は僕と同じように年を重ね、今に至る。きっと記憶にないだけで、コケの範囲や木々の高さは伸びているはずだ。そして僕も同じように、目に見えない、感じないだけで、背が伸びて、内面の成長もしているはずだ。なんて思えるはずがなかった。

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仕事を辞め、実家に帰り、何をしているのだろう。自問自答をすればするほど、よくない答えがふつふつと湧き出てくる。考えるのをやめようと、ポケットからイヤフォンを取り出して音楽を流した。

流れてきたのはBUMP OF CHICKENのメロディーフラッグだった。なんとなく口ずさんでいると、こんな歌詞が出てきた。

「白い紐靴がふと気づけば土の色 こうやっていくつもお気に入りは汚れてった 何もなかったかの様に世界は昨日を消してく 作り笑いで見送った夢も希望もすり減らした。」

確実にここまで歩いてきたけれど、自分の中に残っているものはなんだろうか。世界は何もなかったかのように昨日を消して行く。夢や希望を掲げていたあの頃も、気づいたら世界という存在に消されていた。僕はそのあとに続く2番のサビの部分を足を止めて聞き入った。

「変わる景色に迷うとき微かな音が目印になる 消える景色のその中に取り残されたとき響く鐘の音のような あのメロディーはなんだっけ 昨日や明日じゃなくて今を唄った歌」

人は道以外にも迷う場面がある。進路や将来などの未来だ。でも、迷っているのは今この瞬間だ。ふとした時に、こんな風に、流れてくる音楽や近くの人の助言、本の一行から呼ばれている感覚。今僕はそれを望んでいる。この曲が望んだとおりに働いたかはこの記事を書いている段階でも不明確だが、信じるということ自体を忘れていたことを思いだした。

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何かをみつけたらすぐ自分自身と比べてしまう自分。そんな自分が嫌になった。比べることでしか図れない愚かさに、もう少し早く気づいてやるべきだった。

すぐに何かを成し遂げられたり、成果が出ることは困難だが、いずれその時はやってくるんだと少しだけ信じて続けてみよう。そう思ったとき、正午のサイレンが鳴った。家に帰ろう。

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顔を上げると真冬の途中に訪れた春の気候が、空の深みを教えてくれているかのようだった。