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「先生の机には引き出しがない」第1話(全20話完結済)

  目安:約6100文字

『夢みたいな人生を描くことなんて、本当に必要なんだろうか』

『……生きる仕組み、僕もほしいです』

新宿駅徒歩15分。みどり書籍が借りている単身者向けマンションには、詳細不明の人気小説家淀橋矢来よどばしやらいが住んでいる。ここでアルバイトながら一風変わった担当業務を任されることになった主人公柏木一かしわぎはじめは、極度に狭い行動範囲の持ち主。自宅から徒歩圏内の大学、アルバイトを選び、全ての最優先事項は安心安全。ところがアルバイトを通して今まで見えていなかった『自分の事』を自覚し始めて……

生きにくさを抱えた繊細な若者たち、そして心ある大人たちとの邂逅と実り多い未来への展望を瑞々しいタッチで描き出した、優しく清々しいヒューマンドラマ

あらすじ

第一話 面接

「渋谷は、怖いので」
 僕が申し訳なさそうに友達の誘いを断ると
「新宿に住んでるやつが何言ってるんだよ」
「じゃぁな柏木」
「また来週なー」
 彼らはいつものことだとでも言いたげに笑って行ってしまった。
 そのままハイスペックなパソコンが並ぶ実習室に一人残った僕は、手元のスマホ画面に一旦目を戻した。さっき見つけて、ちゃんと読み切れてなかったアルバイトの求人記事。

・時給千百円から昇給あり
・業務内で知り得た情報について秘密を厳守できる人
・マニュアルに従って静かに作業できる人
・未経験者可、学生歓迎
・コミュニケーション能力不問

「コミュニケーション能力不問……」
 気になる。ものすごく気になる。思わず声に出してしまうほどには。
 勤務地新宿、初心者OK、学生歓迎で絞込みをしていたら表示された、初心者マーク付きの求人記事。
「勤務地、新宿駅から徒歩約十五分。面接は、池袋駅から徒歩約五分。週三日程度の簡単な、お仕事です……」
 勤務地と勤務ペースが真っ先に興味を惹いたものの、具体的に何をするのか全くわからず、首をひねりながら読んだ。
 僕は地元である新宿駅周辺から外に出たくなくて、家・学校・アルバイトの全てをここで賄っている。大学生になって、将来のためとかお金のために初めてアルバイトをしようとなった時だって、まずここで探した。一見賑やかな街だけど、人と接するのが苦手な僕だって何とか働く事ができるような仕事まで、なんでもあるから便利だ。先月までいた薬局の裏方だってその一つだった。けど、個人商店だったそこは先日青山に移転してしまったから。
「みどり書籍……」
 会社の名前を確認する。本屋さん? もしもそうなのだとしたらちょっとだけ興味がある。本の表紙デザイン、店舗内の風景、お店独自の特設スペースやPOP、新しい紙の匂い。一度足を踏み入れたら何時間でも居られる。僕にとって本屋さんは、本と出合うためというよりは、ワクワクへ続く扉だけをたくさん並べて、その先に続く世界を想像して楽しむための場所、という方がイメージ的に近い。けど、この辺にこんな名前の本屋なんて見覚えがなかった。二十年間慣れ親しみ過ぎた新宿駅周辺の風景を辿ってみるけど、僕の記憶の中にそれはなかった。

 一月とはいえ今日はいい天気だし、金曜日ということもあって渋谷に遊びに出かけようと誘われたけど、あいにく僕は人の多い街が苦手だ。それで課題をするために残っていたけれど、ついさっき気分転換にアルバイト求人アプリを眺めはじめたところだった。確かに、人が多い街が苦手なのは間違いない。でもここ、新宿だけは特別だった。なぜかというとここは僕が生まれ育った街だから、当然一番慣れている場所。だから平気。ここは便利だから、できれば一生守られるようにこの街で生きていきたい。

「コミュニケーション能力不問……」
 やっぱり何度でも目が惹きつけられる。アルバイト募集の文言でほぼ目にしたことのない一文に、みどり書籍という会社が何屋さんであるとか、仕事内容がどうとか、どうでもいいやと思えてきた。マニュアル通りに静かに作業できれば良くて、コミュニケーション能力が問われない上に学生歓迎とか、完全に僕向きのバイトだ。運命的としか言いようがない! 新宿にはいろんな仕事があるとはいえ、堂々とコミュニケーション能力不問なんて書いてある求人はなかなかない。こんな僕でも受け入れてくれるような気さえする。やっぱりこのチャンスは逃せない。
 えいやっ!
 エントリーボタンをタップして窓の外に視線を移した。昼の時間が短い季節だから、A館校舎の十階にある実習室から見える空にはもう、夕日が暖かい光を出して輝いている。それが高層ビル群に並ぶ無数の窓に反射するのを見るのは、とても綺麗で好きだ。窓の遥か下で忙しなく繰り広げられる日常はまるで別世界みたいで、その上空にある窓と壁で囲まれた実習室には、ゆっくりと時間が流れている。だから、世間から切り取られた空間に守られているみたいで安心する。
「あ……」
 そうだった。面接地は、池袋……。

「柏木くん、どうぞ」
その声にびくっとして振り返ると、僕より十センチくらい背の高い、落ち着いた雰囲気の男の人がにこやかに立っていた。面接をしてくれる人だろうか。自分が学生だし比較的小柄だというのもあるかもだけど、とても落ち着いて、体格も立派な、少し偉い人みたいに見えた。その人は僕をエントランスからフロア内に誘導してくれて、促されるまま進んでいく。ブラインドが上がった大きな窓のおかげで明るいのに、更に白色の電気が視覚に激しく突き刺さる。四階のフロアには忙しそうに働く人たちがいて、それなりに聞こえてくる様々な音。そんなに大きな音ではないのに、初めての場所で聞く初めての音は僕の脳を必要以上に刺激した。広々とした空間なのに、デスクの上には曲芸のように積み上げられた本だか資料だかのようなもの、壁面に設置されたホワイトボードに掲示してある何かの連絡事項たち、大小さまざまなポスター。視界に飛び込んでくる情報量が多すぎて、めまいがしそうだ。
 僕には変な癖がある。目に見えるものを、まるで写真を撮るようにそのまま覚えてしまう癖だ。しかも優先度などお構いなしにすべての情報が同じ解像度で視界に飛び込んでくる。だから新しい場所は特に疲れてしまう。最近までみんなそんなものだと思っていたから誰にもちゃんと言ったことはないけど、慣れない場所が苦手なのには、実はこんな理由もあった。それもあってすかさず下を向いたけど、誘導が分からなくなってしまうので、もう一度顔を上げて、目の前にある背中だけに視線を貼り付けついて行った。オフィスの奥の方に着くと背の低い曇りガラスで面談室のように仕切られた小さなスペースがふたつあって、そのひとつに入れてもらった。

「こんにちは、今回面接をさせてもらう大久保です」
 ここまで誘導してくれた人はそう名乗って、僕に名刺をくれた。そういえば名刺の受け取り方なんてよくわからない。緊張しながら両手で受け取って、更にそのあとどうしていいかわからずに固まったまま、完全に棒立ちになってしまった。
「座っていいですよ。あとね、一名。すぐきます」
 大久保さんは声も落ち着いていて、きっとそんな歳でないとは思うけど、お父さんみたいな雰囲気がした。気さくに笑いながらそう言ってくれたので、僕は少しほっとして、上着を脱いでから言われたままに座った。そしてあと一名の到着を待つ。
「あ、お待たせしました。よろしくお願いします。僕は余丁と言います」
 間も無くして陽気な声と共にやってきた人は、人懐っこい笑顔で僕に名刺を差し出した。だから慌てて立ち上がって、もう一度両手でそれを受け取る。緊張したまま会釈して、二人と向かい合って座った。そして良く分からないまま、先ほど受け取った大久保さんの名刺の横に並べて、行き場のない視線をそこに落とした。
 名刺の情報によると、大久保左門おおくぼさもんさんは人事部の人で、余丁百人よちょうももとさんは編集部の人のようだ。社名の横に事業内容も分かりやすく明記されている。本屋さんじゃなくて出版会社だった。
「じゃぁ早速はじめましょうか。柏木一かしわぎはじめくん、アルバイト希望の大学生で間違いないですね」
 余丁さんが椅子に座るのとほぼ同時に大久保さんがそう言って、まぁそんなに緊張しないで、と付け足してくれた。
「あ、はい。大学二年生です。よろしくお願いします」
「あぁ、あそこの大学か。へぇ、造形学部」
 あらかじめ送信していたエントリーシートに入力してある在学中の校名を確認して、驚いているようだ。勤務地と同じ新宿だし、大学の存在も知っているみたいだった。
「大学から近いから今回エントリーしてくれたのかな?」
「あの、じ、実は。自宅もたぶん近くて。なので便利だし、続けやすいかなと思って。あと、コミュニケーション能力が、あまり良い方ではないので。その、募集記事に惹かれました」
 いつも以上に呼吸が浅くなってしまって、ますます声が小さくなって震えてしまう。
「はは、そっか!」
 でも余丁さんが楽しそうに相槌を入れてくれたから、おかげで少し緊張がほどけた。そして、大久保さんは住所を確認して「本当だ」と小さく一人で驚いている。僕は勤務地についてはよくわからなくて、でもその反応を見る限りでは相当近所なのかな、なんて思っていた。
「柏木くん、早速だけどさ、淀橋矢来よどばしやらいっていう小説家知ってる? これ。一番新しいやつ」
 余丁さんはそう言ってスマホをちょっといじると、何か画像を表示して僕に見せた。どうやら本の販売ページのようだ。僕はグッと画面に顔を近づけて確認した。あぁこの表紙、知ってる。本屋で見たことがある。綺麗だなぁって思って、それが表向きにたくさん積み上げられていたのも覚えている。映画化決定! というPOPが添えられていた売り場の様子までも、まるで今目の前に展開されているかのように鮮明に思い出すことができる。
「この本、本屋で見たことあります。で、あのすみません。有名な方だとは思うんですけど、読んだことはなくて」
 段々小さくなる僕の声に被せるように余丁さんの笑い声が重なる。
「いやいいよ。知ってくれているなら説明が少し省けるね。その淀橋先生のアトリエというか箱というか。ねぇ大久保さん、何て言うのあれ? 住居兼仕事場? まぁとにかくそこでね、所定のマニュアル通りの簡単な作業をしてもらうっていうアルバイトの子を探してるんだけど、募集記事が怪しげだったのか、君しか応募がなくってさぁ」
 ペラペラと陽気に早口でしゃべる余丁さんの足元を、大久保さんが机の下でペチンと叩いて、そんなことまで言わなくていいんだ、なんて笑いながら怒っていた。あの募集記事、全然怪しげじゃなかったし。僕なんて「呼ばれている」とまで思ったし、応募が僕一人だったなんてもう、これは本当に運命なのではないだろうか。僕の頭の中はそんなふうに大興奮状態だったけど、これもコミュニケーション能力の低さなのか何なのか、慣れないオフィスで立派な大人を二人も目の前にしたら、ただの心の声に留まってしまった。だからあまり適切に表現できなくて、
「ほら余丁、柏木くん固まっちゃってるじゃないか。かわいそうに」
 なんて、大久保さんが心配してくれるくらいには動けないでいた。
「そういうわけで。でもだからと言って押し付けるつもりじゃないですからね」
 大久保さんが続けてくれた。でもそれを押し切るみたいに
「でも、やってみたい、です」
 なんて思わず言っていた。自分でも驚いたけど、なんだか良く分からない期待が僕の中にあったのも、たぶん本当。
「柏木くん、きみ、秘密守れる?」
 余丁さんはニコニコしながら一層僕の顔を覗きこんでくるので、気圧されてちょっと身を引いてしまった。業務上知り得た情報の秘密厳守という、たぶんあれのことかな。
「あ、はい」
 そっか、と余丁さんは頷いて、次の質問を投げかけた。
「基本的にシフト変更とか会社からの連絡とかは社内チャットを使ってるんだけど、働いてもらう事になったらそこに登録してもらうから、一応断っておくね」
「わかりました。えっと、チャットも、いつでも大丈夫です」
「そ、良かった。ありがとね」
 なんだか余丁さんの表情がニコニコしてきているみたいだけど、気のせいかな。
「じゃぁさ、黙って静かに作業することって苦にならない?」
「あの、むしろしゃべったりする方が苦手、なので」
「そうなんだぁ」
 頷きながら嬉しそうに僕の回答を聞いている。あれ? 余丁さんだけじゃなくて、大久保さんもニコニコし始めた。小さい子どもの様子を見守るお父さんみたいな笑顔だ。
「それから週三日程度というのは、基本的に火曜日と木曜日の夕方二~三時間くらい、土曜日の日中五~六時間くらいを設定してるんだけど、土曜日休みじゃなくても大丈夫?」
「はい、大丈夫です。今のところ」
 僕に最優先する予定は学校ぐらいしかないから。バイト代が入って、無理なく長く続けられそうなら、曜日なんていつでもいいと思うのは本音だったのでそう答えた。適当な返事ではない。そんな僕へ余丁さんがうんうんと頷く様子がだんだん大きくなってきて、なんだか大久保さんにまで伝播して、二人で嬉しそうに頷いている。アカベコみたいだ。
「いいね、柏木くんなら上手くやってくれそうだ!」
 思わず口走ったみたいな余丁さんの足元を、また大久保さんがペチンと叩いた。

 やっぱり僕は新宿以外の街は苦手だ。特に渋谷は人混みの情報量が多すぎて怖いけど、池袋は土地が怖い。面接地だった池袋は上手く街の形状を把握することができなくて、初めて訪れたとき派手に迷子になった。だからそれからずっと避けてしまっていた。会社の受付は大きなビルの四階にあって、整えられたエントランスは僕の知らない世界みたいだった。落ち着いた茶系のカーペットも、大きな観葉植物の緑との対比も、なんだか石みたいな調子のタイルが張り詰められた壁面も、そこにスタイリッシュに配置される銀色で形作られた『みどり書籍』という社名も、全てが格調高い気がしてしまう。僕、ここにいて本当にいいのだろうか? と思いながら面接を終えた。帰り道は正直よく覚えていない。スマホは握りしめていたけれど。

「はぁ、よかったぁ」
無事自室に舞い戻った僕は、ほっとしてベッドにうつぶせに寝転んだ。結論から言うと採用決定。即決だった。
『あ、あの! 池袋に来ることは、もうないですか?』
面接の最後に忘れちゃいけないと思って、とっさに口から飛び出した質問が、思いがけないほど大きな声になってしまっていた。大久保さんも余丁さんもびっくりした顔で僕を見ていたけど、すぐに余丁さんがニコニコしてうんうんと頷いてくれた。
『ここはね、うーん、まず来ないよね。基本的に柏木くんの勤務地は新宿、先生のとこだから。ですよねぇ? 大久保さん』
『そうだね、ここに来る用事はたぶんないよ』
大久保さんもそう言ってくれたので安心した。パーソナルスペースは広めに、そして行動範囲は狭めにとる僕にとって、勤務地の安全性は最重要項目だから。居住も学校もバイトも、こんなにコンパクトに完結するとは、本当に助かります。そして、無事にそのまま採用されることが決まったのだから、がんばって面接に行って本当によかった。

 近くで穏やかに、安心安全に。仕事内容より勤務地と環境重視で。この時も変わらず無意識の優先順位で下した決断が、これから僕の意識にどれだけ影響して、僕をどう変えていくかなんて、この時はこれっぽっちも気づかないまま一日を終えた。

各話目次

*****『先生の机には引き出しがない』*****
全20話完(総文字数目安:約9.5万文字)

第一話、第二話はコチラからご覧いただけます

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2023.5.14.完結いたしました
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