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【小説】KIZUNAWA⑨            テザー・二人を繋ぐ絆

 放課後、雅人は村田先生を訪ねていた。
「ご厚意を、無下にお断りする事になり申し訳ありませんでした」
雅人は礼儀を尽くした。
「無下ではありませんね。現に君はここにいるではありませんか」
「しかし、チャンスを頂いたのに」
「全国大会頑張りましょうね。陸上部はクリスマスを京都で過ごす事にしましたので、協力出来る事は何でもしますよ。サッカー部だけでは心許ないでしょう」
「ありがとうございます」
雅人は暖かい気持ちが嬉しかった。
「それまでに何か協力出来る事はありますか?」
「お言葉に甘えて良いのですか」
「何なりと」
「マネージャーを二人と、一〇〇〇〇メートルのタイムをあと五〇秒短縮する練習メニューを指導して欲しいのと」
「ハハハハ! 君は宮島先生と同じ事を言うのですね」
「え?」
「五〇〇〇メートルのタイムをあと二〇秒短縮する練習メニューが欲しいのですよね」
雅人の考えは既に宮島が強者女教師に頼んでいたのだ。
「分かりました。少し時間を下さい。メニューと人選しておきますね」
雅人には「ありがとう」の五文字以外のワードが思いつかなかった。宮島は駅伝部が創設された時に顧問教諭として就任したが、元々は文芸部の副顧問であった。つまり、陸上は素人だ。練習メニューとレース戦術は歴代の先輩たちが四苦八苦しながら考えて来たのが事実だ。しかし、全国大会となるとそう簡単には行かない。まして、視覚障がい者をレギュラーにして戦うのだ、この三ヶ月で戦術を決めて、目標に向かっての練習をこなすには宮島には荷が重すぎた。そこで、村田に協力を依頼していたのであった。
 
雅人はその足で体育教員室に向かった。太陽の事をサッカー部顧問の渡野辺にお願いしておくのを忘れていたからだ。
「自由にお使い下さい。頭は良くないが、心はでかい奴ですから、年内は駅伝部員として扱って、キャプテンの言う事を聞かなかったら即座に連絡下さいよ」
渡野辺は笑った。雅人は多くの人達に支えられて、自分達が走れている事を改めて思い知らされたのだった。
 
 茉梨子は達也と太陽を部室に招集していた。部室のテーブルには、直径五〇センチメートルの黄色い組み紐の輪が用意されていた。
「茉梨子、もう練習メニューが出来上がったのかい?」
「太陽君! 君は駅伝を甘く見ているのかね? 達ちゃんを三ヶ月で五キロ以上走れる様にするだけでなく、君も二人でしっかり走れる様にならなければならんのだよ」
「達ちゃんは兎も角、五キロくらい俺は楽勝だね、茉梨子君ハハハハ」
「俺は、じゃあねえんだよ! 俺たち、なんだよ! このど阿呆が!」
「……」
茉梨子には時々魔女が降臨する。
「……まま茉梨子さん、君は一応女の子 だ・か・ら……」
「忘れろ!」
「……ハ、ハイ」
「さて、達ちゃんは良い子だから分かるよね?」
達也は頷いた。
「俺が馬鹿みたいじゃん」
太陽が膨れる。
「一身上のシンは親じゃあなくて自身の身だからね」
茉梨子が笑う。『……ここ柞山~! 地獄へ叩き込む』太陽の心の叫びである。
「さて、これがテザー!」
茉梨子は達也に手渡して言った。達也は両手で撫でる様に全体を確認していた。
「テザー?」
太陽には未知の言葉である。
「僕と楠君を繋ぐ命の絆」
「命は大げさでしょ?」
「そんな事ないよ、これがないと僕は只のメクラ、何も見えない。つまずいて車にぶつかってしまうかもしれない」
「……分かったけれど、メクラは差別用語だろう」
「視覚障がい者の僕が、自分の事を言ったんだから差別ではないでしょ」
「テザーはね、達ちゃんと太陽を繋ぐ絆である事は間違いない。そして、テザーにもルールーが在るの」
「ルール?」
「そうルール。長さは一〇センチメートルから五〇センチメートル以内の距離で二人を繋げなければならないの。パラリンピックのアスリートは障がい者と伴走者との距離を出来るだけ短くする様よ」
「確かに短い方が意思の伝達が速いか」
太陽は、漢字以外は強い。
「そして、これが私の作ったテザー」
茉梨子は達也から太陽にテザーを移した。
「公式なものではないけれど取りあえずはこれで我慢してね」
「公式のテザーでないと出場出来ないのか?」
「そんな事ないよ、でも公式の物はストッパーが付いていて使い勝手が良いのよ。大会までには捜すから、今はこれでね」
茉梨子は太陽の頭をナデナデした。
「うっへへへ……」
単純な少年である。
「それと、今日からの約束事を決めました」
茉梨子は一枚の便箋を太陽に渡した。
「約束事?」
「そう約束事!」
「今日から太陽は達ちゃんの家に泊まり込む事。お風呂とトイレ、寝る時以外、学校では授業中以外テザーは離さない事。桜井さんの送迎は禁止」
太陽は読み終わると茉梨子に言った。
「これだけ?」
「そうよ」
「簡単じゃん!」
「そうかしら?」
「このくらい簡単だよ」
この時の太陽は、視覚障がい者とコミュニケーションを取る事の難しさを甘く見ていたのである。
「達ちゃんは学校では白杖を使っていないけれど、普段はどうなの?」
「学校以外では使っているよ」
「そう、それじゃあ白杖も使用禁止ね」
「分かった、僕は大丈夫」
「今日から太陽が達ちゃんの白杖になるからね。太陽頼むよ」
「任せて置け」
太陽は自らの胸を叩いて自信満々に言ったのだが。
「ところで茉梨子さん!」
「何?」
「白杖って何?」
「太陽君、君は本当に大丈夫か?」
茉梨子がため息を吐く。
「視覚障がい者が安全に歩行するために必要な情報、例えば先に段差があるとか障害物の存在を教えてくれる白い杖の事、それに白杖を使っている事で自分が視覚障がい者である事を周りに知らせる役目もあるの」
達也はバッグから折り畳みの式白杖を出して二人に見せた。
「持っているのなら学校でも使ったら良いのに」
太陽の素朴な疑問だった。
「通学は送迎付きだし、学校の生徒は皆、僕が視覚障がい者である事を知っているから優しく親切にしてくれる。僕が普通中学を希望して北高中等部が受け入れてくれた時に、階段や廊下に手すりを付けて下さったから学校の見取り図や僕のボックスシートの位置も頭でイメージ出来ているよ」
「だから白杖は要らないのか」
太陽は納得した。茉梨子は達也の白杖を手に取り優しく言った。
「これは私が大切にお預かりいたしますね」
達也は素直に頷いた。
「茉梨子、俺は達ちゃんの家で合宿なら、一旦家に帰って身支度しないとな、走る練習は明日からで良いかな?」
「大丈夫よ」
「それじゃあ俺は一旦帰るよ」
「大丈夫の意味違う! お母さんにM・ラインしているから身支度はもう進んでいるし、取りに行って下さるよう桜井さんに頼むから、今は練習しましょうね」
「なな何でおふくろのM・ラインアドレスを、し、し知ってんの?」
「前から知っているよ、お父さんのもね」
茉梨子はあっさり答えた。
「何時から?」
「太陽がエッチなDVDを隠していたのが発覚した時かな」
「中学一年の時か?」
「中三の春からよ」
「……」
「中一の時にエッチなDVD見つかっちゃったんだー」
「……カマ掛けたのか?」
「太陽は詐欺に引っかかりやすいみたいね」
「お前は魔女か!」
「そんなのどうでも良い、さあトラック練習から始めるよ」
「結婚したら完全に尻に敷かれるね」
達也が笑った。
「うるさい! 達ちゃん行くぞ」
太陽は習慣で達也の手を握った。
「はい駄目」
魔女茉梨子は太陽たちが握り合った手を叩いた。
「痛えな! 何するんだよ」
「伴走者はランナーの体に触れたらその時点で失格なの」
「失格? 随分厳しいルールだな」
「白杖の代わりになるのは簡単じゃあないでしょ」
茉梨子はテザーを達也に渡した。
「今日から二人でトラック三周、ゆっくりで良いから、太陽が達ちゃんの動きに慣れる事と、達ちゃんは走る準備をするのよ」
「いきなり三周は達ちゃんにはきつくないかな」
「時間がないの」
「でも」
「達ちゃん! 自分で決めたのよね? 自分の足で歩くと決めたのよね?」
達也は脅えながら頷いた。
「だったら明日からじゃないよね? 今から歩かないと自分に負けるよ!」
茉梨子の叱咤が達也に浴びせられた。『魔女ではない。悪魔だ! 鬼だ!』太陽は心で叫んでいた。
「僕やるよ」
達也は立ち上がった。茉梨子に叱咤されたからではない。自分の意志で走ると決めた事を後悔したくなかったからだ。
「楠君!」
達也はテザーの片方を握り締めて、もう片方を太陽に差し出した。
「分かった!」
やはり茉梨子の言う通りで簡単には行かなかった。部室から出るだけでも大変な事だった。達也は普段の生活範囲でない部活動室のイメージは出来ていない、恐怖心から何度かつまずき達也と太陽の息は全く合わなかった。取敢えずテザーの両端に固定された輪にそれぞれの手を入れて歩き出した。
 二人の間隔は、一〇センチメートルほどで達也の歩幅に太陽が合わせる形で歩き出した。
「達ちゃん! 一メートル先にテーブルがある」
太陽が指示しても達也には伝わらずにつまずき太陽が慌てて支えた。
「テーブルがあるって言っただろ!」
太陽が怒る。
「ごめん! でも一メートルの感覚が分からないよ!」
この繰り返しで時間はどんどん過ぎて行った。トラックに立つまでに辺りは日が暮れて照明が灯されていた。と言っても達也には関係がない事なのだが、灯された光は太陽にとっては幸いの光である。
「達ちゃんそのまま真直ぐ歩いて」
太陽は達也の歩幅に合わせ歩いた。
「トラックって歩きやすいんだね」
達也は快調に歩いていた。
「本番はロードレースだからアスファルトでも段差や石があるよ」茉梨子が言った。
「後五メートルでコーナー、左にカーブするよ」
太陽の言葉に達也は首を捻った。やはりメートルの感覚が掴めない。
「達ちゃんの白杖は何センチなの?」
茉梨子が達也に聞いた
「えー? 何センチだろう?」
達也は白杖の長さを知らなかった。
「白杖なら、さっき茉梨子が取り上げたろう」
太陽が茉梨子を見つめた。
「……そうか、私が持ってたんだ」
茉梨子は達也の白杖を取り出し組み立てて達也に渡して言った。
「何時も使うみたいにやってみて」
達也は白杖を受け取ると普段使用している様に前方に白杖の先を左右に動かした。
「こんな感じかな」
そう言う達也の足から白杖の先までの距離を茉梨子は測ってみた。
「八〇センチメートルか」
茉梨子は左手を顎に当てて、右手の人差し指で自分の頭を軽く叩いた。それは茉梨子が何かを考える時の癖だ。
「何を考えている?」
太陽が聞く。
「メートルを止めて白杖を単位にしたら分かりやすいかなと思ってさ」
そう言ってから茉梨子は溜め息をついた。
「どうした?」
「ただこれには問題がひとつある」
「グタグタ考えないでやってみれば良いじゃん」
太陽は簡単に言った。彼は何でも楽観的に物を考える。ある意味それが彼の長所なのだが、茉梨子の言う問題の原因は正にそれだった事に太陽は気付いていない。
「そうだね、やって見るか。一白杖が八〇センチメートルなのね」
そう言うと茉梨子は三角コーンを太陽たちの前方三メートルの位置に置いた。
「太陽これでやって見て」
「メートルでなく白杖を単位にして達ちゃんにコーンの位置を教えて」
「オーケー達ちゃん行くよ」
太陽は達也に言って二人は歩き出した。
「達ちゃん三メートル、じゃなくて、えーと一……白杖が八〇セン」
そこまで言うと太陽は座りこんで地面に数字を書き始めた。
「やっぱり」
「え?」
「三メートルなら約四白杖で良いでしょ! 走りながら指示するのだからいちいち地面に計算式を書いてどうするのよ! 間抜け!」
魔女降臨である。
「なるほど」
魔女の叱咤に太陽は逆らえなかった。
「僕がメートルを白杖に変換するから、楠君はメートルで教えてくれれば良いよ」
達也の言葉に、呆れる茉梨子の横で何故かホッとする太陽の姿があった。
トラックを三周、太陽には簡単な事だが達也にとっては大変な事だ。疲れ切った達也を桜井が心配して車に運びこもうとしたが、茉梨子がそれを断り、桜井には太陽の家から荷物の運搬を依頼し第一日目の練習は終了した。
 
「今日から二人で帰るのよ」茉梨子が言った。学校に桜井の姿はもうなかった。達也を迎えに来た桜井を茉梨子が事情を説明した上で莫大な仕事を与えて帰したのだ。
魔女の囁きである。
「帰りも二人で呼吸を合わせて頑張って! 気を付けて歩くのよ」
茉梨子は言った。
「お前はまだやる事あるのか?」
太陽が聞くと茉梨子は笑いながら言う。
「マネージャーってさ! 選手より忙しいのだよ! 太陽君分かるかね」
笑うと両頬に笑窪が出る。実際、茉梨子のお道化たしゃべり方や心からにじみ出る笑顔が、部を支えて来た事は否めない。
「達ちゃん着替えて帰ろう」
太陽の言葉に達也は頷いたが足は重たそうだった。
「疲れたね。ゆっくり歩こうな」
太陽も達也を気遣って優しく言った。二人の行動は少しずつ重なり始まっていた。帰り道、達也は時々振り返り、首を傾げていた。太陽が振り返っても誰もいない。
「達ちゃん、誰かが付けて来ている気がするの?」
太陽が聞いた。
「気のせいだと思う。行こう!」
達也は歩き出した。
「二メートル先に五センチの段差」
達也が頷く。
「三メートルで信号を渡る。信号赤、ストップ! 青になったゴー」
「犬じゃあないよ」
達也が膨れた。
「ごめん! ごめん」
笑いも生まれた。三〇分以上掛けて河山駅までたどり着いた。
駅前のロータリーでは横川たちがけたたましく排気音を出して走り回っていた。
 駅前に交番があるにも関わらず横川たちは平気で走り回っている。横川たちの改造マフラーは法定内ぎりぎりの改造になっていたので違法にはならない。駅前交番の横には白バイが一台止めてあったが、白バイ隊員も違法ではない改造バイクにはどうする事もできずに、ただ横川たちを睨みつけるしかなかった。
                               つづく

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