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【小説】KIZUNAWA⑦        七番目のランナー・僕では駄目ですか?

 選手登録の最終日の朝、雅人は悪あがきと分かっていたが駅前に行ってみた。しかし、横川たちの姿はなかった。引田が申し訳なさそうに首を振った。雅人が諦めて学校に戻ると始業のベルが鳴っていた。達也と太陽が何かを話しながら昇降口に向かい、それを見届けた桜井が駐車場を出るところだった。
雅人は午前中の授業を、上の空で受けていた。昼食も取らず部室に向かった雅人は、皆が承認してくれたら正式にキャプテンに就任しよう思っていた。
全国大会の出場辞退、これが新キャプテン柞山雅人の最初の仕事。
雅人は気が重かった。深呼吸をして覚悟を決めて部室のドアを開いた。部室の空気はどんよりと濁り重たい。無論、言葉もなかった。
「下向くなよ、元気出そうぜ」
必死に絞り出した言葉。
「……」
返事はない。静まり返った部室の空気を和ませたのはやはり茉梨子の笑顔だ。「そうだよ、やり直そうよ。皆なら来年また全国への切符を勝ち取れるよ。そうだよね? 新キャプテン!」
茉梨子は雅人を見ていた。
「皆! 俺に駅伝部のキャプテンをやらせてもらえないかな?」
雅人は仲間の反応を待った。
「キャプテンは雅人しかいないと皆思っているけれど、最初の仕事が出場辞退の決定なんて辛すぎるだろう」
栄が涙声で囁いた。
「誰かがやらなければならない事だから」
雅人の目にも涙が溢れて来た。
「どうやら新しいキャプテンが決まった様ですね」
宮島も心配して部室にやって来ていた。
「先生!」
「皆さん大丈夫ですか? 大丈夫ではありませんね。愚問でした」
「先生、お願いがあります」
雅人は意を決した。
「諦めますか?」
「今となってはそれしか……」
「ひとつ方法があります。陸上部の村田先生からある提案を頂きました」
「提案?」
「はい、しかしこの提案を受けるか否かは皆さんが決める事だと私は思いますので返事は保留にしてあります」
「どんな提案なのですか?」茉梨子が喰い付いた。
「陸上部と駅伝部の統合です」
「統合と言う事は陸上部に吸収されると言う事ですよね」
雅人だった。
「駅伝部がなくなる」
豊が俯いた。
「そう言う事になりますが全国大会には出場できます。陸上部には中距離の選手が沢山おります。全国制覇も造作ない事かもしれませんね」
この時の宮島は、巧みに生徒たちの気持ちを揺さぶり、恰も陸上部との統合がベストな判断だと思わせる言い方をしていた。それは詐欺師の様でもあったが、本心は生徒たちが悩み苦しみ、それを乗り越えた時に生まれる、真の団結力を育てたいと願っていたのである。
「日本一か……」
詐欺師の餌にまず喰い付いたのは二区を走る中村哲夫(なかむらてつお)だった。
「でも日本一の意味が違うと思う。駅伝部として優勝する事が、鎌田先輩の目指した日本一だよな」
五区を担当する斎藤優生(さいとうゆうせい)は、すかさず哲夫が喰い付いた餌をもぎ取った。
「先生」
「はい何ですかキャプテン」
「少し時間をもらえませんか?」
「残念ですがお昼休みの間に結論を出すしか術はありません。この提案を受けるか、跳ねのけるか、何れにしろ、全国大会の選手登録は今日が締め切りです。跳ねのけるとすれば出場は辞退、長野県の代表を佐久工業高校にお願いするには半日は必要です」
詐欺師は畳み掛け生徒たちを追い込んだ。
「皆! どうする?」
再度雅人は仲間へ問い掛けたが、追い込まれた部員たちから声は聞こえてこなかった。
「……」
静まり返った部室で宮島は生徒たちがNOの答えを出す事をひたすら待ち続けていた。
「広江は? 広江の意見を聞かせてくれないか」
「……私は、私はキャプテンの判断に従う」
自信のない声であった。
「俺もそれで良い。キャプテンに決めて欲しい」
健次郎の言葉に全員が手を挙げていた。
「……」
「さてどう致しましょう?」
詐欺師は腕を組んで雅人を見つめた。
「……先生」
雅人はゆっくりと話し始める。
「断って頂けますか」
「良いのですね?」
「お願いします」
「分かりました。理由はどうしますか?」
「理由はこれです」
雅人は襷を手に取って続ける。
「先輩たちは陸上部を離れて駅伝部を立ち上げて下さいました。以来この襷を繋ぎ続けて今に至ります。陸上部の提案はとても優しく嬉しい話ですが、僕たちの時代でこの襷を諦めたくないのです。鎌田先輩に叱られる気がします。先輩の最後の願いを一年かけてでも叶えたいのです。これが理由です」
全員が頷いていた。
「分かりました立派です。目の前の優しさを断ってでも、自分たちの信念を貫く事を決めた皆さんを先生は誇りに思いますよ、君たちなら来年きっと勝てます。そう信じましょう」
宮島は満面の笑みでそう語った。しかし、彼らを励ます言葉も満面の作り笑いも響いてはいなかった。
健次郎は壁に背中を持たれ掛けると力なく膝から崩れ落ち座り込んで頭を抱えた。机に伏して顔を覆って泣いていたのは栄と優生だ。何時も明るい豊と冷静な哲夫も元気を失い、部室の空気はいっそう重たくなって無言の時が流れていた。
 茉梨子は、窓の外を見ていた。普段なら清々しく感じる青い空や人々を暖かく包み込む日の光も、この日の茉梨子には歪んで見えていた。真っすぐに前を見つめて夢を追う若者たちに悲しい現実は、木枯らしにもまさる逆風となって襲い掛かっていたのである。
 もしも、神様が存在するのなら一度で良いから奇跡を起こしてほしい! そう、ただ一度で良いのだから、この子どもたちに魔法を掛けて欲しいと、宮島は思っていた。時間が解決すると人は言うが、悲しいかな、時は夢の終わりを告げ様としている。宮島が雅人の肩を軽く叩き職員室に戻ろうとし、その思いやりのある教師に雅人が深々と頭を下げた時、その声は部室に響き渡った。
 
 
「僕では駄目ですか?」
 
部員全員の視線が声の主に集まった。
そこには達也と太陽が立っていた。
「僕じゃあ無理ですか?」
達也は繰り返し問い掛けていた。
「西之園、でも君は」
雅人が呆気にとられたまま言った。
「僕は目が見えないから、走りたいと言う事自体が常識外れですよね」
達也は恐々と語っている。
「でも僕は小学生の時に止まってしまった僕の時計を自分の意志と力で動かしたい! 祖父や先生から言われたままの人生じゃなくて自分で決めて、僕の未来を決めたいんです」
達也は熱く語る。
「僕が入部する事で部員の皆には可成りの迷惑を掛けてしまう事は良く分かっているし、足手まといになる事も充分理解しています」
達也は下を向いた。
「ううん……」
茉梨子は達也に走り寄ると続ける。
「そんな事ないよ。走りたいと思ったら走って良いし、サッカーやバレーボールだって達ちゃんがやりたいと思えばやれるよ。誰も迷惑だなんて思わないわよ」
茉梨子は、か細い幼馴染の体を抱きしめていた。
「柞山君! 足手まといかもしれないけれど僕を登録してもらえませんか?」
「西之園の気持ちはありがたいと思うよ、でもね、大会にはルールーが在ってね、残念だけれど……」
雅人の言葉を打ち切ったのは達也の力強い言葉だった。
「僕! 大会要項を何度も読んでもらったけれど、視覚障がい者が登録出来ないとは何処にも書いてないんです。勿論、僕が皆の足を引っ張ってしまう事は充分わかっているけれど、皆が許してくれたら僕……」
達也の言葉は途中で途切れた。
「大会要項に書いていない?」
宮島が慌てて要項を取り出した。部員たちは一斉にスマホを開いていた。
「書いてませんね」
宮島がぽつりと言った。そして再度読み返した。
「やはり書いてはありません!」
「登録が出来ると言う事ですか?」
豊に明るさが戻っていた。
「そう言う事ですね」
宮島にも本当の笑顔が戻っていた。
「柞山君! 一旦僕を登録して大会当日までに健常者のランナーを捜す時間を稼げば良いよ」
達也の寂しい言葉だ。
「当日の選手変更は可能でしょ」
達也は雅人に言葉で詰め寄った。
「それは出来ない!」
雅人ははっきりと言い切った。
「やっぱり僕みたいな障がい者では駄目ですか?」
「そうじゃあないよ! 西之園で登録したらゴールまで君で行く。それ以外考えないと言う話をしたんだ。でも、相当厳しい練習と戦いになると思うぞ。覚悟はあるのか?」
雅人は戸惑っていた。
「俺に伴走をさせてもらえないだろうか? 陸上の経験はないけれど一〇キロ以下なら走り切る自信があるし、俺は達ちゃんとガキの頃から友達だ。多分この学校では一番達ちゃんの事を理解出来ると思う。それと、昨夜、雅人に教わった本物の絆の重たさを俺自身が身をもって体験し、サッカーに生かしたいんだ。伴走者だったらサッカー部のサポートという事で皆の力になれる」
達也と太陽は真剣だった。
「……伴走はある意味、選手より辛いかもしれないぞ」
雅人の言葉に太陽は力強く頷いた。
「茉梨子! この形だったら俺はお前の力になれる。駄目かな? 勿論覚悟は出来ているよ。俺だって本物のチームワークと言う絆を学びたいし、友達を助けるのは人として当たり前の事だろう」
「僕、視力を失ってから今まで、皆みたいに走りたいとかボール蹴りたいとか言うのが怖くて、自分から逃げていた。でも楠君が一緒に走ってくれたら僕も一歩前に出られると思った」
達也は目に一杯涙を溜めながら言った。それは叫びにも似た声だった。
「雅人、茉梨子、皆! 俺たちに挑戦させてもらえないだろうか?」
本気だった。
 
これは今朝の達也と太陽の話だ。
 
達也のボックスシートに達也より先に座ったのは太陽だった。
「そこは僕のシートだけど」
達也が何時もの時間に桜井と共にやって来て自分のシートに座っている太陽に言った。
「何処にお前のシートって書いてある」
「皆が達也シートって呼んでいるでしょ」
「スパイクのポイント! 変えたよ」
「だったら練習すれば?」
「いくら練習しても勝てない事が駅伝部のチームワークを見ていて分かった」
「どういう事?」
達也は何時も太陽が座る達也のボックスシートの隣に腰を下ろした。
「自分を変えて駅伝部みたいな絆を学ばなければ国立競技場どころか地区予選だって勝てないという事が分かったのさ」
「自分を変えるか。僕なんか一瞬で自分の環境が変わっちゃった」
「そうか、小六の時か」
「うん! 当たり前に在った光がなくなった」
「あの日から、父さんと母さんがいなくなって、それが当たり前になった」
「でも、達ちゃんはそれを乗り越えて、中学と高校は盲学校でなく普通校で頑張ってる」
「前にも言ったけど乗り越えてない! 僕の家はお爺ちゃんのお陰でお金持ちだから何とか学校に入れてもらえたけれど、それは周りの人の力、自分自身では何の努力もしていないよ」
達也は俯いて話していたが急に前を見据える様に顔を上げると途方もない事を言い出した。
「楠君!」
「なに?」
「駅伝! 僕じゃ走れないかな?」
「え?」
「走れたら僕、自分で前に進める気がするんだ!」
「……」
「やっぱり無理だよね」
達也は笑った。
「……本気か?」
太陽が尋ねる。
「……冗談だよ、忘れて」
寂しそうな達也の言葉は風に飛ばされたが、代わりに逆風へ立ち向かう太陽の声が辺りに響いた。
「達ちゃん行こう! お昼休みになったら駅伝部の部室に行こう。言うだけ言ってみれば良い! それだって前へ出る事になると思うよ」
太陽は、もしも駅伝部がこの申し入れを聞き入れたなら、自分が伴走者として名乗り出る覚悟を決めたのだった。
「え? う、うん」
 
 昼下がりの部室で、茉梨子は引田の言葉を思い出していた。「最後に勝つのは本物だけですよ」
あの言葉に込められた真の応援メッセージが茉梨子の心の中で「僕では駄目ですか?」という言葉と重なっていた。
「柞山君!」
茉梨子は雅人の背中を押した。
「あっ! そうだな。皆! 西之園に駅伝部へ入部してらって良いかな?」
誰一人として異論は出なかった。
「先生! 陸連や高体連から相当抵抗があると思います、それでも僕たちは……」
「それは大人の仕事ですよ。君たちは真直ぐゴールを見つめて、それぞれの夢に向かって走りなさい」
「先生ありがとうございます」皆が深々と頭を下げた。周りの状況が見えない達也の後頭部を太陽の左手が押した。
「神様はいらっしゃったんですね」
                              つづく

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