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小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第7回【織田信長の上洛と光秀】

小和田哲男『明智光秀の実像に迫る』第7回【織田信長の上洛と光秀】

天下布武を掲げ全国統一をめざす信長は、室町幕府再興をはかる足利義昭を擁立して上洛します。この二人の橋渡し役をつとめたのが光秀でした。義昭の家臣だった光秀は、信長の妻・帰蝶といとこの間柄でした。15代将軍の座についた義昭は、堺・草津・大津を信長に与えます。これが信長飛躍のきっかけになります。今回は、信長の上洛の前後で、光秀との関係がどう変わったのか、お話し頂きます。

要旨

足利義昭は、朝倉義景に上洛を依頼するが、動こうとしない。
そこで、織田信長に再度、上洛を依頼しようと考えた。
この時、明智光秀は、細川藤孝に

「我等、彼室家に縁ありて、頻に招かれ、大禄を授ん」(細川家伝『綿考輯録』。別名『細川家記』)

と声をかけたという。「彼室家に縁あり」とは、「織田信長の正室・帰蝶は、私のいとこである」ということである。

明智光継┬光綱─光秀
    ├光安
    └小見の方─帰蝶(織田信長正室)

・元亀2年→永禄11年(横畠文書)
御内書謹んで頂戴致し候。喧嘩の次第、仰せ聞せられ候。先ず以って是非無き題目に候。存分の通り御使両人に申し渉し候。猶、明智かた迄申し遣すの条、上聞に達すべく候。随って青瓜済々成し下され候。殊に名物の間、別して賞翫忝なく存じ候。此等の旨を御披露に預かるべく候。恐々謹言。
 6月12日   信長(花押)
  細川兵部太輔殿

永禄11年7月25日 足利義昭、美濃国立政寺入り

・「天下布武」の印
 ・天下:京都及びその周辺地域
 ・武(ぶ)を布(し)く:「三権門」の中の武家が天下の権を握る。
・権門体制論:「三権門」(公家(朝廷勢力)、寺家(宗教勢力、寺社勢力)、武家(武家勢力))が相互補完、または、競合しながら中世を形成したという国家形態・支配機構を示す歴史学上の概念。
・足利義昭を擁して上洛:大義名分を得て「天下布武」実現の時!

永禄11年9月7日 織田信長、上洛路確保のため出陣

○北近江:小谷城主・浅井長政(お市の夫)
X南近江:観音寺城主・六角承禎(三好三人衆方)
    ・出城・箕作城を落とす。→六角承禎、甲賀郡へ敗走

永禄11年9月26日 足利義昭、上洛
永禄11年10月18日 足利義昭、征夷大将軍に就任
・足利義昭、織田信長に管領(細川、斯波、畠山)就任を要請→辞退
・足利義昭、織田信長に副将軍就任を要請→辞退
 ・織田信長は足利義昭の家臣になりたくなかった。
・足利義昭、織田信長に望みを聞く。→堺、大津、草津を直轄地に

永禄12年1月4日 本圀寺の戦い
・京都堀川の本圀寺:城郭寺院(寺院城郭)
・明智光秀は「三好三人衆」に対し、鉄砲で応戦?

永禄12年2月27日 二条城築城開始

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