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石川教区学習会レポート

先日石川教区にて「新しい領解文」の学習会が開催され、参加してまいりました。満井所長からの「新しい領解文」についての解説がなされた後、質疑応答の時間となり数名の参加者から質問とそれに対する回答が為されました。

私も以下二点に関する質問をしました。

①「新しい領解文」の学習会の目指す所、ねらい

まず一点目に〈「新しい領解文」の学習会の目指す所、ねらい〉について尋ねましたのは、そもそも宗門側がこの学習会をどのような位置づけで行っているのか、その前提の確認をしておかなければ、いくら「新しい領解文」についての疑義を問うても、全てが無意味になってしまう可能性が危惧されたからです。

そこで、「新しい領解文」に対する批判がある中で、それを見直しや妥協点を探る意図はあるのか、それともただ単に「新しい領解文」の内容やその意図を汲めないでいる人たちに「わからせる」ためのものかを尋ねました。

回答としては、やはり唱和の推進と、学びを深めてもらうための目的の学習会であるということでした。つまり、この学習会の場で、どれだけ「新しい領解文」についての疑問や問題点について問い尋ねても、それを改めようとする意志はほぼ無いというのが宗門側の本音なのだろうなということが感じられました。

これまで勧学・司教のご指摘があったり、いくつかの教区で学習会が行われ、批判の声も多かったであろう中で、それでも全く方針を改める気がないというその姿勢は、正直残念でなりません。学習会に参加してきた方々には、「新しい領解文」の内容や唱和推進の方針に様々な問題があると感じ、それをなんとか改善していかなければという危機感があったことと推察されます。にもかかわらず、そのような意見には全く耳を貸さない、自分たちの方針には間違いがないと頑なな態度を取り続けるのは、御同朋の教団としていかがなものかと思わずにはおれません。

とはいえ、現場からの声や、「新しい領解文」に対する疑問や考えを伝えられる場は限られていますから、言うべきことがあると考える方は、やはり声をあげる、質問をするということは大切であるはずです。

②「あらゆる場面で唱和する」という方針について

そこでもう一点、〈「領解文」を「あらゆる場面で唱和する」という方針〉について尋ねました。

私がこの質問をしたのは、「領解文」を「あらゆる場面で唱和する」ものとして用いることは、明らかに間違った用い方であると感じるからです。

そもそも「領解文」とは、我々が浄土真宗の教えを聞き、その受け取ったところを言葉として表す「領解出言」ということに本質があります。つまり、「聴聞」がまずあって、その「領解」を「出言」して初めて「領解文」が意味を成すのです。

ところが、「あらゆる場面で唱和する」というのは、「聴聞」の場に限らず、ということでもあります。実際に私もご本山での会議という、なんの領解もない場面において「新しい領解文」の「唱和」が行われ、戸惑いを感じたことがあります。この度の「新しい領解文」の学習会においても、まず「唱和」が行われ、それから満井所長の解説や質疑が行われました。これも明らかに順番が逆ではないでしょうか。

また「領解」を「出言」するということは、一種の信仰の告白でもあり、非常に宗教性の高い行為です。それを「唱和」という形であらゆる場面で用いるということは、「領解文」にある言葉や「領解出言」という行為の持つ宗教性を著しく毀損し、換骨奪胎してしまう、そのような方針であると感じています。

その危惧について尋ねた所、総務から返ってきた答えは、「『出言』ではなく『唱和』なんだ。だからなんの問題もない」というものでした。しかしこれは明らかに私の質問の意図を理解していない回答です。「教えを聞きその領解を述べるためという性質をもつ『領解文』を、なんの領解もせずに『唱和』のために用いるのはおかしいですよね?『領解文』の本質を壊してしまいませんか?」ということを尋ねているのに、「『唱和』だから問題ない」というのは明らかに私の指摘する問題点を理解できていません。

そこですぐに満井所長に受け止めを尋ねました。すると、今度は「口に唱えてそれを耳で聞いていくことに意義がある」というようなお答えをいただきました。私は思わず「それなら『領解文』である必要はないですよね」と言ってしまいましたが、「唱和」すること自体が目的であるのならば、なぜ「領解文」の名を冠する必要があったのでしょうか。「領解文」と名付けるならば、やはりその「まず領解が先」という本質からズレてしまってはいけませんし、そのような用いられ方をするものを「領解文」と呼ぶことはできないのではないでしょうか。

ですからもし「唱和」を推進したいのであれば「領解文」という名前はやめるべきだと思いますし、「領解文」という名前を使いたいのであれば、それに相応しい場面にのみ限定して用いられるべきであり、「あらゆる場面での唱和」という方針を撤回すべきであると私は考えています。

以上が私が今回質問をしたことですが、最後にもう一点感じたこととして、質問をする側がしっかりと準備をしておく必要性ということがありました。

質疑応答の心構え

それは、自分が何を聞きたいのかをしっかりと言語化し、端的にまとめておくということ。このような場では、どうしても自分の思いの丈を語りたくなってしまうのですが、感情や思いに基づく意見というのは「それってあなたの感想ですよね」程度にしか受け取られません。また時間にも限りがありますので、思いをぶつけることに時間をかけてしまうと、他の質問ができなくなってしまったり、質疑に対する答えの論点がズレてしまうということにも繋がってしまいます。

また、これまでの学習会でもいろんな質問がされていますので、これまであったのと同じような質問をすることは、すでに答えが出てしまっていることでもあるので、あまり議論が深まりません。そこで、これまでの質問内容を精査し、新たな視点での質問を行うか、これまでの回答からさらに突っ込んで議論を深めていくというような形を取り入れることも重要ではないかと感じました。

「新しい領解文」について、言いたいことは皆さんたくさんあろうかと思います。だからこそ、貴重な機会を少しでも活かせるようにするためにも、この「新しい領解文を考えてみよう」のサイトで情報を共有しながら、しっかりと準備をして学習会に臨んでいただけたらと思います。

満井所長の講義に関して

満井所長のお話でいくつか疑問に感じたことを上げておきます。

〈私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ 「そのまま救う」が弥陀のよび声〉について

この箇所は智慧の眼からの視点、つまり「約仏」として書かれており、さらにその智慧が慈悲へと展開したものが「そのまま救う」という「弥陀のよび声」であるとされました。

それはその通りだと思いますが、しかし、私の煩悩と仏のさとりが本来一つであると智慧の視点から見えるのならば、わざわざそこから慈悲へと展開することも、よび声としてはたらくことも、必要なくなるのではないでしょうか?仏知見から見れば煩悩とさとりは本来一つであることが明白ならば、衆生を放っておいても、何も問題がないことになってしまうのでは?と感じられました。

もう一点、なぜ「そのままの救い」なのか、ということに関して、救いの要素はすべて仏の側で用意され、私たちは仏になれる因を何一つ持っていない、そのような凡夫を救うには「そのままの救い」でなければ間に合わないとお話されました。

これもその通りだと思うのですが、しかしそうなると「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」ということと整合性がとれなくなってしまわないでしょうか?私の煩悩と仏のさとりが本来一つであるのならば、私は仏になれる因を持っているという解釈をされてしまう可能性もあります。

〈この愚身をまかす このままで 救い取られる 自然の浄土〉について

「そのまま救う」という如来のはたらきによって、私のこの身のまま救われ、浄土に往生し仏となるとお話をいただきました。

こちらもその通りだと思うのですが、しかしそうなりますと、この「新しい領解文」における後段部分「念仏者の生活」の箇所が、全く無意味化してしまうように思えます。「念仏者の生活」の部分は、自分自身の愚かな有り様が知らされ、お恥ずかしいという気持ちから、自身のあり方を問い直していくということであるかと思いますが、そうなるとそれは私の「このまま」ではいけないというところから起こってくるあり方でしょう。

確かに私の救いの姿は「煩悩具足のこの身のまま」、つまり「このまま」と表現され得るものであるのかもしれませんが、「このまま」という言葉からは「私はこのままでいいんだ」とか「薬があるから毒をあおっても大丈夫」というような受け取りに繋がり、「念仏者の生活」の部分へとスムーズに接続しなくなっているように感じられました。「このままで」という誤解されやすい表現ではなく「この愚身をまかす その時に」など、表現を変えた方がわかりやすいのではないのかなあと感じられました。

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