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日本人の倫理についての疑問

お待たせしました。エモーショナルなテキストです。
初めての投稿なんでテストも兼ねてる。

菊と刀って何?

『Twitter政治界隈』
ーそれは、デマやなりすまし、レスバ、悪口陰口にまみれている「Twitter」の中でも特別「ヤバイ」と言われる暗黒の魔境である。

常識人が足を踏み入れたならば3秒も経たずに失神してしまうだろうこの界隈で、休むことなく活動しているエリートツイッタラー(別名:社会不適合者)である筆者は、このようなツイートを見た。
曰く

「日本は『菊と刀』で書かれている通り、『恥の文化』なんですよ。
だから善悪の判断軸は『世間からの評価』で決まる」

…ふむ。
なるほど。恥も外聞もなく罵り合う政治界隈にいると忘れてしまいがちではあるが、日本人というのものは元来「他人の目」というものを物凄く気にする種族である。
このような主張の中で最も有名なのが、米国の文化人類学者、ルース・ベネディクトの著作『菊と刀』であろう。
「菊と刀」について以下、大正義Wikipedia閣下教授より引用

『菊と刀』(原題:The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)は、米国の文化人類学者ルース・ベネディクトによる、日本の文化を説明した文化人類学の著作である。

『菊と刀』は、ベネディクトの戦時中の調査研究をもとに1946年に出版された。ベネディクトは、フランツ・ボアズより教わった急進的な文化相対主義の概念を日本文化に適用するべく、恩や義理などといった日本文化『固有』の価値を分析した。

ほんほん、どうやらこの本は第二次世界大戦末期に戦時情報局からの要請で敵国日本人の行動を分析するために書かれたものらしい。
さすがアメリカさん、どこぞの極東の島国と違って分析とかしっかりやりますね()
そして、この本には、

「日本の文化は『恥の文化』である」

と記述されているのである…!!!


恥の文化ってなんじゃらほい?

「恥の文化」とは簡単に言うと「他人から見られて恥ずかしいか、恥ずかしくないかを気にして行動する文化」のことです。
そして、その典型例が日本である、と。
一方で、西欧は「道徳的に正しいか、正しくないかで行動する文化」であるらしい。
なるほど、だからアメリカさんは道徳的に正しい『民主主義()』で行動(べとなむ、いらく)したんですね(ニッコリ)

この二つの違いは「宗教」の違いであるといわれています。
西欧は一神教文明であり、神による「戒律」の存在が大きい。
人々の心には常に神様がいて、神様を裏切らないように「正しい」行動をしている。
もし「正しくない」行動してしまったら、心の中にいる神様(つまり『良心』)によって罪の意識に苛まれるのです。
それに対して日本は多神教であり、神や仏による戒律への意識はそれほど強くありません。だから、「内面の良心」が育たず、周りの目を気にするような倫理意識になった。

ポイ捨てで例えるなら
日本人は「周囲の評価が気になって」ポイ捨てをしない。
一方で欧米人は「常に神に見られているので正しくない事は出来ない」からゴミを捨てない。
という感じでしょうか


…ん?ということは…?いや待てよ…?

本題じゃあああああああ!!!!!!!!!!!

ふざけんなボケえええええ!!!!!!!!!
なあにが「恥の文化」じゃあ!?
皆さん、前置きはここまでで、今からが本編です!


「日本人は他人から見られて恥ずかしいか、恥ずかしくないかを気にして行動する」という言説は「日本人は悪いことをしていても他人にバレなければ、自分のやったことを悪いとは感じていない」という意味も込められているのです!
実際、ロース・ベネディクトはこう言及している。

恥が主要な力となっているところにおいては、たとえ相手が懺悔聴聞僧であっても、過ちを告白しても一向気が楽にならない。
それどころか逆に、悪い行いが「世人の前に露見」しない限り、思い煩う必要はないのであって、告白はかえって自ら苦労求める事になると考えられる。(「菊と刀」より引用)

「日本人は悪事がバレなければ悩まないし罪の意識にもさいなまれない」だと言っているんです!!(過言)
もしかしてベネディクトさん、あなた日本人のこと「人をコ口してもバレなければ普段通り過ごしているサイコパス人間」とでも思ってます?
コロした後、普段通り生活できるわけ無いじゃないですか!!(経験談)(嘘です経験してないです)

日本人の諸君、思い返してみてもらいたいのだが本当に君たちに「内面の良心」や「良心の呵責」はないのだろうか?
バレないけど相手にとっては不都合な嘘をついたとき、あるいは人知れず悪いことをしてしまったとき、そんな時に心の痛みは発生しなかったのでしょうか?
そんなことありません。
我々にも良心の呵責はあるし、心が痛むことはあるのです(要出展)

そういう風に考えると、「日本は恥の文化」論は、どこか正しくないように思えます。

いや、はっきり言いましょう。
僕は、「日本は恥の文化である」という主張は間違っている(部分もある)と思います!!!
確かに、日本人は周りの目を見て行動することが多い。
でも、ちゃんと日本人の倫理観は、西欧の倫理と同じく、「内面の良心に基づいたもの」であって「周りの目を気にした結果生まれたものではない」のです。

そもそも「日本人に内面の良心がなく、西欧人には内面の良心がある」という主張の根拠は何でしょうか。
そうですね、途中説明したとおりです。

この二つの違いは「宗教」の違いであるといわれています。
西欧は一神教文明であり、神による「戒律」の存在が大きい。
人々の心には常に神様がいて、神様を裏切らないように「正しい」行動をしている。
もし「正しくない」行動してしまったら、心の中にいる神様(つまり『良心』)によって罪の意識に苛まれるのです。
それに対して日本は多神教であり、神や仏による戒律への意識はそれほど強くありません。だから、「内面の良心」が育たず、周りの目を気にするような倫理意識になった。

西欧には一神教の戒律があるから内面の良心が育ち、そうでない日本は内面の良心が育たなかった、ということですね。

しかしながら、そもそも「戒律のある一神教では内面の良心が育ち、そうでない社会では内面の良心は育たない」という考え方は偏見に満ちた傲慢な決めつけではないでしょうか?
この決めつけの根本にあるのは「一神教は高度の思考形態であり、日本の神道などの多神教アニミズムは呪術的な低級なものである」というフレイザーに影響を受けた考え方のように思えます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC

↑フレイザー:「呪術が発展して宗教になる」(意訳)っていう主張をした人物。後の研究者に大きな影響を与えた。

「戒律がなければ内面の良心が育たない」というのは本当なんでしょうか?
柳田国男はこの考え方に真っ向から反論しています。

氏神信仰では人は誰でも死して後は一定の期間を経て氏神に融合すると想定されていた。したがって人々はみな、子供はもちろん老人や障害を持った人も神になるべき存在として可能な限り尊ばなければならないと考えられていた。それが、人々の共生を支える倫理意識の一つのベースになってきた。
このように柳田は倫理形成の観点からも氏神信仰を重視した。(川田稔「柳田国男」より引用)

戒律がなければ内面の良心が育たないという主張はどうも説得力を持つようには思えない。
柳田国男が言うように、戒律がなくても内面の良心、すなわち「倫理」は形成されるように感じる。

日本人も西欧人と同じく、「信仰」に基づいた内面的な良心による倫理観がある、そう考えると「日本は恥の文化だ」とする『菊と刀』の主張には賛同できないところがあるのである。

おわり。




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