見出し画像

森の医者

 しとしと雨が降る森の中を白衣に首から聴診器をかけて、片手に黒い革製のバッグを持ち、裸足のままで歩いていた。私は医者だった。と言っても人間を診察したことがなかった。それどころか病の人間を見たことがなかった。昔はさまざまな病があり、今では信じられないが若くして死ぬ人もいたくらいだったと聞いたことがある。また、老いと共に体のあちこちで不具合が生じ、それによって命を終える人がほとんどだったとも歴史の授業で学んだ。今日ではもはや病院もなく、医者になるための免許すらいらなかった。判断しなくてもいい、考えなくてもできる仕事なのだ。しかしそれに反して高級取りだったため、故に誰しもが羨む職業になっていた。しかし実際のところ自分が何をしているのかもわからなかった。やりがいなど全くと言っていいほど感じたことのない、ただの単調な作業だった。

 私の主な仕事内容は森に行き、樹皮の上から聴診器を当て、それが生きている木なのか死んだ木なのかを判断することであった。死んだ木であればその根元に薄紫色のリボンを巻き付けて目印をつける。そして、これは本当に稀なのだが、生きている木があれば黒い四角のカバンの中から注射器と菫色の液体の入った薬瓶を取り出し、それを木に注射してその木を殺さなければならなかった。化学的な知識はまったく持ち合わせていないに等しい私には、その液体がどういった成分でできているのか、木に対してどのような作用を与えるのかさえも全くわからなかった。

 今登っている山は登りやすい段状になっていてあちらこちらにごわごわとした針葉樹が生えている。一つ一つ診て回る。どれも死んだ木だった。薄紫の目印を慣れた手つきで結びつける。途方もない数だった。頂上のあたりに登り着いた時、一本だけ生きている木を見つけた。いつもそうやっているように私は注射器に液体を補充すると、ざらついた樹皮に針を刺そうとした。しかしその瞬間強い風でも吹いたかのように枝葉ががさがさ音を立てて揺れた。周りを見ても風はなく、最初は地震かとも思ったが揺れているのはその木だけだった。直観的に私はその木が死にたくないと泣き叫んでいるのだと気づいた。今まで樹木を屠ることを生業にしてきた私の手はもうすでに真っ黒に汚れていた。それでもこの時だけは殺してはいけないと思ってしまった。しかし右手に持った注射器はどうすればいいのか、とりあえず何かに注入しなければならないと思い、咄嗟に反対側の上腕に針を突き刺した。麻酔のように最初だけちくりとした痛みを感じたが次第に感覚は、私からするりと抜け落ちていき、そして体全体が冷たく、硬直していった。それから、体の奥から何かが芽生えてくるのを感じた。じっと腕を見つめるとありとあらゆる毛穴から小さな種子が生まれてきた。それは全身の毛穴に起きたことだった。種子はやがて発芽し、緑の繊維状の苔がそこから伸びてきた。次第に不安が込み上げてきた。その場から逃げ出すにも足が動かない。たまらなくなってその生きている木に抱きついた。するとみるみるうちに苔は木全体を覆い、何重もの分厚い層を表面になした。

 それからしばらくして後任の医者が何人もやってきた。彼らは決まってあの薬品を苔になってしまった私の体に突き刺した。しかし針は樹皮にすら届くことはなく、途中でぽっきりと折れてしまうばかりだった。それから入れ替わり立ち替わり、五人ほど医者がやってきては同じことを繰り返すと、諦めたのか、もはや誰も尋ねて来ることはなくなった。その間にあれほどの数あった死んだ木たちはすべて枯れて、腐り、土に還り、山はピラミッドのような形状を露わにした。その表面にはかつて私が巻いた、夥しい数の菫色のリボンが落ちていた。その頂上付近に一本だけ、深緑色の太い棒状の苔むした木が聳えていた。私はその一部になったのだ。私自身が苔になってしまった以上この先のことを想像することも困難になった。ただ意識だけはこの先もずっと続くようだ。私には死ぬことすらも許されないのかと思うとただただ途方に暮れるしかなかった。









※これは筆者が見た夢をもとに加筆したお話です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?