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「書く」ということについて思うこと

ずっと「書く」ということに抵抗があった。

ハードルがある。16年前、放送作家として働き出してから「書くこと」は仕事となり、書く時間はお金を稼ぐために使う時間だと思うようになると自然と仕事以外で書くことは遠ざかっていった。

昔は「書く」ということは苦ではなかったし得意だと思っていた。その頃のようにもう一度自由に文章を書きたいと最近思った時に「書く」ということに対するハードルを下げようと思った。書くことに対して楽になろうと思った。

それは自分が思ったことを素直に「書く」ということ。

文章を書こうとすると、これまで覚えてきたたくさんのルールが自分を縛ってくる。「掴みが大事」「文章の長短のリズムを気にする」「いろんな構成を試す」「カギカッコや記号の使い方のルール化」「改行や句読点のタイミング」「比喩表現へのこだわり」。…まぁこれまで勉強して学んできた様々な書く技術、そのルールが「書く」という行為のカロリーを膨大にしてしまった。結果、書かないという選択をし続けた。それを全て取っ払って書けば「書く」ことを楽しめるんじゃないかと思った。だから、自分が思ったことを素直に書いていきます。

だからここまでは前置き。ここからようやく本題です。


『書くということについて思うこと』

放送作家という仕事は、放送の原稿を書く仕事が主で、文章を書くことが多い。特にラジオは文章量が多いと思う。放送時間は決まっているし、テロップもないので、聴いている人にわかりやすく、伝わりやすく、できるだけ短く書く必要がある。スラスラと脳内から聞こえてくる文章を書くこともあるし、テーマタイトルを考える時には、キャッチコピーを考えるようなものなので、いくつも案を出す推敲作業になる。そんな「書く」ということをずっとやっていてあるとき気づいたことがある。

「書く」時に「乗る」ときと「乗らない」ときがある。

どういうことか?それは運動と似ているのかもしれない。どんなスポーツでもウォーミングアップなしにいきなり試合をしたらうまく体が動かなかったりするだろう。体力を使うスポーツなら呼吸が苦しくなるから、一回苦しいところまで追い込んでから本番に臨む。そうするとすんなり入れる。それは誰もが体験したことがあるのではないか?

「書く」ときにもそれが起こっていることにある時気がついた。

特にキャッチコピーのようによりクリエイティブな作業をするとき。以前、作詞をしていた時期があり、作詞は曲が先にある場合、音楽に合わせて言葉を乗せていくので言葉の数に制限が生じる。さらにメロディーに合わせて言葉の雰囲気を合わせる必要も出てくる。さらに1曲の中で伝えたいことを収めないといけない。様々な言葉のパズルが発生する状況で、いざ書き始めようと思っても、スムーズには絶対にいかない。最初は誰でも考えられるような月並みな言葉しか出てこない。1時間ほど試行錯誤を重ねて考えていると、これまでどこに眠っていたのか、脳の中の言葉の引き出しがどんどん開いていき、いい表現が少しずつ出始める。この状態になってからはチャンスとばかり、言葉をメモして書いては削りを繰り返していく。その状況を続けると、さらに次の段階へ。ポッと1行くらいの分量がかたまって出てくることがある。そのとき出てくる塊の言葉は推敲の必要がないくらい完成している時が多い。そして、自分の頭の中にあった言葉とは思えない表現力がある時もあり「本当に自分の頭の中から出てきたの?」と疑う時もある。

とにかく今日書きたかったことは、「書く」前に「書く」というウォーミングアップをしないと、「書く」ための言葉が出てこないということ。

文章を書いている人にとってこんなことは当たり前の話なのかもしれないが、誰からもそんなことを聞いたことがなかったので、今日は書いてみようと思った。集中状態に入るから言葉が出てくる、という単純なことかもしれない。

(まあそれだけではなく、日々の言葉の鍛錬も必要なんだろう。運動と同じように毎日やっていないと体がなまってしまうように。文章を読むことやアウトプットすること。昔小説家のインタビューで「毎日文章を書くことが大事だ」ということ話を聞いたことがある。)

僕はこれから台本を書くので、そのウォーミングアップとして実はこの文章を書いている。この文章を書く前にウォーミングアップはしていない。そんな文章を見せてしまうことが自分の中では大きな変化の一つだったりする。そしてウォーミングアップな文章を知ってから読むとまた違った視点で読めるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

今日一番強く伝えたかったことは、「これからここに色々なことを書いていきます」という宣言です。




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